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2021年10月24日 聖霊降臨後第22主日

マルコによる福音書10章46~52節


福音書  マルコ10:46~52 (新83)

10:46一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。 47ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。 48多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。 49イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 50盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。 51イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 52そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。


引き続きマルコ福音書を読んでまいります。先週は、イエス様が高い地位を願ったヤコブとヨハネに「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と教えられた場面を読みました。続く「盲人バルティマイを癒す」のお話は、イエス様がエルサレムに入られる前の最後のエピソードで、イエス様の伝道旅行の締めくくりに当たります。


今日の聖書の物語は、イエス様の一行がエルサレムに上っていく途中、エリコという町に差し掛かるところから始まります。エリコはエルサレムから約27㎞のところに位置する古い町で、ヨシュア記6章に記されている「エリコの戦い」の舞台となった場所です。イエス様がこの町を出て行こうとされた時、イエス様は「弟子たちや大勢の群衆と一緒」であったと書かれています。イエス様に従う群衆の数がすでに相当膨れ上がっていたことが伺えます。


ここでバルティマイという人が登場します。彼はティマイという人の息子(「バル」はアラム語で「息子」という意味)で、目の見えない人でありました。目が見えないということは当時の社会で大きなハンディキャップでした。職業に就く機会もほとんどなかったので、彼は仕方なく道端に座って物乞いをしていたのです。「道端」というのはエルサレムに通じる街道のことであったと思われます。エルサレムを巡礼する人々が大勢行き来する場所に座って、施しを受けることで生活していたのです。


バルティマイはイエス様が来られたことを聞くと、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言って叫びました。「ダビデの子イエス」という言葉からは、彼がイエス様のことをイスラエルの王・メシアと信じていたことが伺えます。マルコ福音書においてこの「ダビデの子」という称号を口にしたのはバルティマイただひとりでありました。


バルティマイが「わたしを憐れんでください」と大声で叫ぶのを聞いて、周囲の人々は彼を叱りつけて黙らせようとします。彼がイエス様にも物乞いをしようとしていると思ったのかもしれません。障がいを持つこの人に対して、群衆は冷酷でした。しかしバルティマイはますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けます。51節で「先生、目が見えるようになりたいのです」と言っているように、彼が求めていたのは施しではなく癒しであったのです。イザヤ35:5で「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。」と預言されているように、盲人の目が開くということはメシア到来のしるしでありました。バルティマイはイエス様がこのメシアであることを確信していたのです。


そんなバルティマイの叫びをイエス様は聞かれました。そしてイエス様は立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われます。人々はバルティマイを呼んで「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」(口語訳「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」)と告げました。するとバルティマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエス様のところへ行ったと書かれています。イエス様の呼びかけを聞いた彼のよろこびがよく表れている部分です。脱ぎ捨てられた上着は彼の古い自分、今までの生活を表していると取ることもできます。バルティマイはイエス様の呼びかけを聞いて心から喜び、古い自分を脱ぎ捨ててイエス様の待つ方へ向かって行ったのです。


イエス様はやって来たバルティマイに「何をしてほしいのか」と尋ねます。バルティマイは迷わず「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。ここで「先生」と訳されているのは「ラボニ」という言葉です。これは「ラビ」という語にさらに敬意を加えた形で、聖書中ではマグダラのマリアとバルティマイだけがイエス様に対してこう呼びかけています。バルティマイの訴えの切実さが表れているかのようです。


それを聞いたイエス様が「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われると、バルティマイの目はすぐに見えるようになりました。すばらしい奇跡です。イエス様はバルティマイに「あなたの信仰があなたを救った。」と言われます。これまでの物語でも描かれていたように、イエス様は信仰がないところでは奇跡を行うことがおできになりませんでした。しかし信仰のある所には、癒しと救いがもたらされます。マルコはエルサレム入城までの物語をこの奇跡物語で締めくくりました。これから十字架に向かわれるイエス様は最後まで私たちに信仰を呼びかけておられるのです。


また、イエス様が「行け」と言われているのにバルティマイが「イエスに従って行った」と書かれているところもこの物語の興味深い点です。イエス様はバルティマイに家に帰ってよいと言いましたが、バルティマイはイエス様に従ってイエス様の弟子になることを選びました。マルコ福音書の奇跡物語において名前が伝えられているのはヤイロとこのバルティマイのみです。彼の名前がこのように伝承されているのは、彼がその後も教会に留まり、イエス様の弟子であり続けたからに他なりません。


これまで読んできた物語を振り返る時、福音書には様々な人々が登場しました。イエス様に「わたしに従いなさい」と言われてもその決心がつかなかった人々、イエスに従ってきたもののいまいち信仰が薄い弟子たちが描かれる中で、このバルティマイという人物は、イエス様を信じ、自らイエス様に従ったという点で、イエス様の真の弟子であったと言うことができます。彼のイエス様に対する信仰、あらゆる抵抗にもめげずに叫び続ける勇気、イエス様に従っていく決心は、私たちの信仰の模範です。


バルティマイはイエス様に向かって「わたしを憐れんでください」と懸命に叫びました。私たちも毎週礼拝の中でキリエを唱え、「主よ憐れんでください」と祈っています。バルティマイがイエス様に向かって発したのと同じ言葉で、私たちも繰り返し祈っているのです。私たちは「主よ憐れんでください」というこの言葉にどれほどの切実さ、どれほどの信仰を込めているでしょうか。私が言いたいのはだからもっと気持ち込めろとかやる気見せろとか、そういうことではありません。そうではなくて、私たちのそういう言葉はイエス様に必ず聞かれている、イエス様は必ず立ち止まってくださっているということを今日の聖書から言いたいのです。私たちが「主よ憐れんでください」と唱える時、イエス様はバルティマイになさったのと同じように、私たちの声を聞き、立ち止まって、「何をしてほしいのか」と尋ねてくださっています。そのことに気付く時、私たちの祈りはますます生き生きとしたものになるでしょう。来週は宗教改革主日、再来週は全聖徒主日と続きます。一年の節目のひと時を祈りを持って過ごしてまいりたいと思います。



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