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神の国

2021年11月21日 聖霊降臨後最終主日 永遠の王キリスト

ヨハネによる福音書18章33~37節


福音書  ヨハネ18:33~37 (新205)

18:33そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。 34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」 36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」 37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」


今日は聖霊降臨後最終主日、そして永遠の王キリストの日です。6月6日から始まった聖霊降臨後の期節も今日をもって終了し、来週からは新しい教会の一年が始まります。ペンテコステ後の期節である聖霊降臨後主日は、キリストが栄光のうちに再臨されるまで、教会が新たな契約のもとに長い中間時を送ることを示唆する期間であり、イエスが天に昇られてから終わりの時に再び世に来られるまでの期間を象徴しています。この締めくくりにあたるのが永遠の王キリストの日です。


「永遠の王キリスト」は1925年に教皇ピオ11世によって定められた比較的新しい祭日で、人類が自らの利益のために対立し、世界の国々の支配者の力が強まる世の中にあって、キリストこそが真の王であることを再び認識するために設けられたと言われています。この時ドイツではヒットラー、イタリアではムッソリーニ、ソビエトではスターリンが独裁体制を固めつつあり、世界の国々は絶対的な指導者による強い政治を求めていました。そんな時代にあって、教会はそれらの地上の指導者の上にイエス・キリストが君臨しておられることを訴えたのです。


先週は神学生の笠井さんに説教をしてもらいましたが、笠井神学生の説教で言われていたのは、人が神ではないことを知ることの大切さであったと思います。人は何らかの形で自らの限界を知り、神に目を向けなければならないという内容でした。同じように今週の箇所でも、我々が築く地上の王国、我々が仕える地上の王の上に、イエス・キリストが真の王としておられるということが言われています。どんなに優れた人も本当の意味で王にはなり得ないと知り、真の王イエスに仕えて生きることの大切さが語られているのです。


聖霊降臨後の期節が象徴するのは、私たちが生きているのは再びイエスがこの世に来られるまでの中間時に過ぎないということです。今あるものはいつか滅びて、終わりの時、完成の時が訪れます。神様から見れば私たちが今あるものを誇ることに意味はないのです。聖霊降臨後最終主日であるこの日、イエス様によってすでにもたらされ、やがて完成する神の国に思いを馳せて、心を謙遜にして教会暦の一年を締めくくりたいと思います。


今日の聖書の物語は、イエス様がローマ帝国の総督ポンテオ・ピラトのもとに連れて行かれるところから始まります。イエス様はすでにユダヤ人の裁判機関である最高法院で有罪判決を受けていましたが、ユダヤ人の有力者たちはイエス様をさらにピラトに引き渡します。それは、彼らの最高法院には死刑の決定権がなかったからです。総督のもとに押し掛けてローマの裁判権を濫用するほどに、彼らはイエス様が死刑になることを望んでいたのでした。


そういういきさつがあって、ピラトは自分にとっては半ばどうでもいいことながら、このイエスという不幸な男を尋問することになります。ピラトは単刀直入に「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねます。それは、イエス様がメシア運動(ユダヤ人の間にメシアがあらわれて同胞をローマ帝国の支配から解放するという民族運動)の首謀者なのかということであり、つまりはローマ帝国に対する反逆者・革命家なのかということでした。


イエス様はそれに対して「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」とお答えになります。イエス様がローマ帝国の反逆者であるというのは、それはピラト自身の見解なのか、それとも大祭司たちの訴えをそのまま伝えているのか、と反問しているのです。


ピラトはイエス様に「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」と言い返します。もちろん彼はユダヤ人ではありません。ユダヤ人ではないから、単なるユダヤ人同士の揉め事であるこの件をできるだけ早く片付けたいのです。だからイエス様に「いったい何の罪を犯してこんなに恨まれているのだ」と引き続き尋ねています。


そこでイエス様はピラトの最初の質問にお答えになります。「わたしの国」「わたしの部下」「わたしの支配するところ」が存在すると。しかしそれはこの世には属していない。もしそれがこの世のものであったならこんなことにはなっていないはずである。そんな風に言われます。イエス様の国はこの世のものではないので、ローマ帝国にとって少しも危険ではありません。それは地上のほかの国々と違ってこの世の政治的・武力的なものではないからです。


それを受けてピラトは「それでは、やはり王なのか」と尋ねます。イエス様が言っていることの意味がよくわからないので「王を自称しているということでいいのか」と確認しているのです。確かに、イエス様は王です。しかしそれはイエス様が政治的権力者・武力保持者であるということとは異なっています。イエス様ご自身が「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」とおっしゃっているように、イエス様が王として求めておられるのは権力ではなく信仰であり、イエス様がこの世に来られたのはこの世を支配するためではなく天の御国に人々を導くためなのです。イエス様は地上の王を超越する「永遠の王」なのです。


私たちはイエス様が再び来られるまで、人が人を支配し王になることを受け入れますが、しかし私たちの真の王は主イエスであるということを忘れてはなりません。イエス様の王国、神の国は、この世には属さない、今は目に見ることのできないものです。しかし私たちはすでにその国の民であり、イエス様を私たちの王として戴いています。すべてが完成する終わりの日に、それはますます明らかになるでしょう。聖霊降臨後最終主日であるこの日、永遠の王であるイエス様をすべての上に置き、自分を低くして新しい一年の始まりを待ちたいと思います。



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