「私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」
本日は、神殿のある都エルサレムにある『シロアム(遣わされた者)の池』という場所での出来事が記されています。
「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』 イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9:1-3)。
「一個人の在り方に、病気の原因を見つけ出そうとする」という考え方は、聖書に限らず、古今東西いずれの国にもあるものしょう。コロナウイルスの流行の中で、感染経路とは関係なく、発症者の名前まで特定しようとする様子にも、そのような人間の考え方が表れます。
弟子たちは、目の見えない男性を見て、「本人か、それとも両親の罪が原因ですか?」と、イエスに尋ねています。しかしイエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」と、弟子たちの理解を完全に否定されました。そして、目の見えない男性の元に向かわれたのです。
「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」(9:6,7)。
この癒しが、9章の一連のやり取りのキッカケとなるのです。
「生まれつき目が見えなかった人が見えるようになる」とは、誰も聴いたことの無い奇跡です。そのため、周囲の人々は「本当に本人なのか、何があったのか、誰が癒したのか」と質問攻めにしたのです。
癒された男は、イエスと言う人物が行った事の次第を説明しました。けれども、それまで目が見えなかった彼は、「その人物がどこにいるのか」という質問には答えることが出来ませんでした。
その後、癒された男はファリサイ派の人々の元へ連れて行かれ、そこで質疑応答が始まりました。しかし、癒しを行った張本人がイエスだと知ったファリサイ派の人々は、男の答えを受け入れることができなかったのです。
ついには、「安息日(神への礼拝のみに集中する日)」に癒しを行ったイエスの罪を批判し、罪人に奇跡は行えないと批判しました。また、男の両親を呼ぶなどして、どうにか癒しの奇跡を無かったことにしようとしたのです。
「彼は答えた。『あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです』」(9:25)。
何度問われようとも、男は「目が見えるようになった」という事実を否定することなどできませんでした。当時、ファリサイ派の人々に逆らえば、ユダヤ人の社会から追放され、生活の場を失うこととなりました。男の両親が「本人にお聞きください」(21)と逃げたのは、それを恐れていたためです。
しかし、同じことを繰り返し問うファリサイ派の人々に対して、ついに、癒された男は自らの思いを語ったのです。
「『あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。』彼らは、『お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか』と言い返し、彼を外に追い出した」(9:30-34)。
癒しを実感する男は、「イエスが神の元から来られた方でなければ、このような奇跡は行えないはずだ」と告白する。
その一方で、「罪人のくせに、俺たちに教えようと言うのか」と追放を決めた、ファリサイ派の人々の器の小ささが露わになります。
「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた。彼は答えて言った。『主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。』イエスは言われた。『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ』」(9:35-37)。
イエスは、自分がどこから来られたのか、自らが何者であるのかということについては、何も語っておられません。しかし、癒された男が捜している人物とは、「あなたと話しているわたしだ」とだけ語られるのです。
「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(9:39)。
ヨハネ福音書でイエスの言われる「裁き」とは、何か具体的な罰が下されることを言っているのではありません。イエスを知らないまま生きる、それ自体が既に裁かれているのだというのです。
目が見えるようになったことに驚きはするものの、その男の癒しを喜ぶ者は誰一人いませんでした。ただイエスだけが、本人が願う前に、彼の癒しを望み、喜ばしい奇跡を手渡された。男は、その身に起こった癒しを実感し、後の人生をイエスへと委ねていくのです。
イエスとは何者なのか。癒された男は、イエスとは「神のもとから来られた」方だ、と証しします。では、私たちにとって、イエスとはどのような存在か。どこにいて、私たちへ何を手渡してくださる方でしょうか。
今、イエスは私たちに言われます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」(37)と。私たち自身が身をもって知るこの方にこそ、この身を委ねたいのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン」