「私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」
本日は「主の変容(へんよう)」と呼ばれます。どういう意味か。イエスがいつもとは違う姿に変わった、つまり「変身した」ということです。
本日の聖書の内容から、一体どのような出来事が起こったのかを聴いてまいります。
「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(17:1)。
六日前に何があったのか。イエスの受難予告です。ご自身が「エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(16:21)と、弟子たちへと話されたのだというのです。
弟子たちがイエスに従った理由は、彼を「救い主(キリスト)だ」と信じたからです。彼らの期待とは、「イエスならば、ローマ帝国の監督下からユダヤ人を解放し、自分たちの国を再建してくれるだろう。」というものでした。それはユダヤ人の願い、この世的な救いでした。
そのような期待をよそに、イエスは「エルサレムで自分は殺される。」と言われるのです。ペトロは、すぐにイエスを皆の見えないところに連れていき、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(22)と黙らせようとしました。彼らの指導者イエスが死んでしまえば、革命の野望は消えてしまうのです。
しかし、イエスはペトロに言われました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(23)。反対したペトロが厳しく叱られたことで、これ以降、弟子たちは何も言えなくなったようです。
この出来事の六日後、イエスは3人(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)を連れて、山に登られたのです。すると・・・
「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」(17:2,3)。
3人が見ている前で、イエスの衣服が光のように真っ白になった。マルコ福音書の言葉を借りれば、「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」ようです(9:3)(マルコ福音書には、顔が輝いたとは書かれていない)。そして、その場に『旧約聖書』で最も有名な二人、モーセとエリヤが現れ、イエスと話し始めたのだというのです。
「モーセ」は、神から直接「十戒が刻まれた石板」を受け取り、それを民に語り伝えた人物です。ユダヤ人ならば、聖書の律法(掟)と言えば、真っ先にモーセを思い起こしたでしょう。聖書には「モーセは死んだ」(ヨシュア1:2)と書かれています。けれども、「葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。」(申34:6)とも書かれているため、後に「生きたまま神のみもとに迎えられたのだ」と語られるようになりました。
「エリヤ」は、最も偉大な預言者として崇拝されていた人物です。彼については、はっきりと次のように書かれています。「彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った」(列王下2:11)。
「生きたまま再びこの世界にやって来る」と言い伝えられていた二人が、光のように白い服を身にまとうイエスと語り合っている。その光景は、一緒に山に登った3人のユダヤ人にとって、非常に特別でした。それは、伝説が残る二人と、イエスが確かに関係していると証明されたからです。
ペトロは「わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。」(マタイ17:4)と口走っています。テントを建ててでも、どうにかその光景をその場に留めておきたいと思ったのでしょう。
「ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた」(17:5,6)。
語り合う3人(イエス、モーセ、エリヤ)を雲が覆った時、イエスの洗礼の際と同様に、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」という声が響きました。そして最後に「これに聞け」という弟子たちへの語り掛けがあったのだというのです。
恐れひれ伏していた3人の弟子たちが、呼びかけられて顔を上げると、そこにはイエスお独りしかおられませんでした。山を下る際、イエスは3人に口止めをされ、一連の出来事が締めくくられるのです。
何故、わざわざ「主の変容」という名前で、この出来事が記念されるのでしょうか。
先ほど申しましたが、山に登る六日前にイエスが「私は十字架で殺され、三日目に復活する」と、弟子たちへと伝えました。「復活」と言われても意味が分からない以上、弟子たちの意識には、ただ「イエスが死ぬ」というショックな報告だけが残ります。彼らは指導者を失い、野望は崩れ去る未来へと、失意のうちに歩まねばならなかったのです。
この弟子たちを力づけ、励ましたのが、変容の出来事だったのです。真っ白に輝く様子こそ、イエスの「本来の姿」なのでしょう。それは、社会の中で立場の低い人々と共に立つ、普段のイエスの姿ではありませんでした。しかしイエスは、その白さを手放してまで、この世に来られたのです。
私にとってイエスとは、「人生の道しるべ」です。しかも、十字架までの生涯だけ、つまり復活について語られなくとも、それは変わりません。なぜならば、白く輝かない姿、この世を歩まれたイエスの姿にこそ、神の御旨(意志)が現されているからです。本来の姿が垣間見せられた。この出来事が、神が高みではなく、共におられる方であることを、私たちへと教えるのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン」