マタイによる福音書5章13-20節
5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 5:19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
「私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」
先週、「幸いだ」という言葉で語られていく『山上の説教(垂訓)』を聴きました。マタイ福音書の著者は、イエスの旅の内容を伝える前に、まず、語られた言葉を紹介しています。イエスの言葉こそが皆を力づけ、救う「福音(良い知らせ)」に違いないと考えていたからでしょう。本日は、この『山上の説教(垂訓)』に続く内容を聴きます。
私たちの教会には、HPがあります。そこには、「ルーテル教会って何?礼拝ではどんなことをするの?」といった内容を載せています、宗教改革者マルティン・ルターの神学(神や聖書の捉え方)に立っていることを表明するためです。私たちが何者であるかを、世の中に伝えることができます。
マタイ福音書の著者は、本日の内容で、どうやら自分たちの教会の立場や在り方を、読者へと伝えようとしているようです。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(5:17,18)。
どうやらマタイの教会には、イエスは信じるけれども、聖書(旧約)は無視して良いと考える者たちが居たようです。しかし、キリスト教会に集う者は、これまで信じていた神を捨て、新たな神に乗り換えたのではありません。だから、これまで通り先祖からの信仰に立った上で、イエスの歩みに従うよう呼びかけられています。
「だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。・・・言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(5:19,20)。
要するに、「私たちは、ユダヤ教の律法学者やファリサイ派よりも、聖書(旧約)の掟を忠実に守り、正(義)しい者だ。そのようにできない者は、天国には入れない。」と言われています。
実際には、マタイの教会の人々が、聖書(旧約)の言葉を一言一句守っていたわけではないでしょう。しかし、このように書くことで、先祖の大切にしてきた聖書を無視しないように警告できます。また、これを読むユダヤ教徒にも、「私たちは新興宗教ではない。ユダヤ教徒よりも正しく聖書(旧約)の掟を実践している!」とけん制することもできるでしょう。
このように考えると、直前の「あなたがたは地の塩・・・世の光である。」というイエスの言葉を、マタイ福音書がどのように受け止めたのかが明らかになります。
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(マタイ5:13)。
塩は、私たちの生活に欠かすことのできないものです。生命活動を維持し、食事に味わいをもたらすだけではなく、食材の防腐処理にまで使えます。詳しくは分かりませんが、それでも塩が私たちにとっていかに大切であるかが分かります。もし、塩に味がない場合、ただの砂利と変わらないので捨てられるでしょう。
私たちは、この世にとって必要不可欠な塩であると言われています。あなたをあなたとして形造られた(味を付けられた)のは誰か。聖書は、神だと伝えています。だからこそ、マタイ福音書の著者は、信仰者としての正(義)しさを無くし、捨てられても仕方ない者とならないように警告しているのでしょうか。
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(5:15,16)。
光は明るさや色を伝えるだけではなく、暖かさによって地球を生物が生きることのできる気温に保ちます。光もまた私たちが生きる上で不可欠です。
聖書は、「イエスはまことの光だ」と表現しています。神の光は、その言葉を聴く一人ひとりの内に灯る。だからこそマタイ福音書では、信仰者として皆を照らし、模範となる者であれと鼓舞されているのでしょう。
「ユダヤ教徒以上に正(義)しいあなたたちは、地の塩、世の光であることを皆に表せ!」…おわかりいただけるように、イエスの言葉として記されていながら、イエスの生き様とは正反対な内容が伝えられています。イエスは、正しくないと認定された罪人や、掟によって「けがれた」と宣言されてしまった病人と出会い、彼らと共に生きられた方だからです。宗教とは、正統性を誇示するたびに、このように歪んでしまうものなのです。
「あなたがたは地の塩・・・世の光である。」とは、イエスの宣言です。「塩・光になりなさい、塩・光としての品性を保ちなさい」ではない。あなたこそ、この地、この世界にとって必要不可欠な塩であり、光であると宣言されているのです。
日常生活の忙しなさの中で、感動した聖書の言葉さえ忘れ、神の御旨(意志)とは正反対に生きてしまう。都合の良い時だけ神の名前を呼び、助けを求める。失敗や後悔は数え切れないこの身は、きっと命を代価にしても償いきれない罪を、神の前に背負っているのでしょう。
しかし、そうでありながらも、イエスは私たちを「地の塩、世の光だ」と言われるのです。理由は分かりません。ただキリストが私たちを望み、必要不可欠なのだと、今あなたに宣言されているのです。
「何かを為す」以前に、私たちの「存在そのもの」がキリストに喜ばれ、この世界にも必要だと語られている。何も為せない赤ちゃんとして生まれた私たちは、命の終わりの何も為すことが出来なくなるその時にも、必要不可欠な存在で在り続ける。この宣言を今、受け取りたいのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン」