マタイによる福音書3章13-17節
3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
「私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」
本日は、イエスが洗礼を受けられた場面について、マタイ福音書が伝える内容を聴きます。
クリスマスに、イエスの誕生をお祝いしました。それからイエスは、ガリラヤ地方の村ナザレで育ち、30歳になった頃、ついに旅を始められたと伝えられています。イエスはこの旅の最初に、荒れ野で活動する洗礼者ヨハネのところへ行き、洗礼を受けられたのです。
「洗礼(バプテスマ)」というギリシャ語は、「全身が浸る」という意味を持ちます。「全身を水に浸し、水から上がる」という動作を通して、洗礼では「死んで生まれ変わること」を体験したようです。これまでの自己中心的な自分は死に、神と共に生きる新しい命を受け取るのです。
しかし洗礼を受ける際に、しなければならないことがありました。マルコ福音書には、洗礼者ヨハネが「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(1:4)と書かれています。水に入る前に、まず自分自身の罪を告白する必要があったようです。
聖書で「罪」と訳される「ハマルティア(ギリシャ語)」は、「的外れ」を意味します。的とは、神の御心(意志)です。けれども私たちには、神が何を考え、何を為そうとされているのか分かりません。そのため全ての人間が的外れ、罪ある者と言えましょう。
たぶん洗礼者ヨハネの前で告白されたのは、そのような「的外れの罪」だけではなく、日常の中での失敗や悔いるべき行動など、私たちのイメージするような内容も多かったでしょう。いずれにしても、後ろめたい人には言いにくい罪を告白してから、人々は洗礼を受けたのです。
罪を告白する時、神の前に立つ資格が無い自分の姿に気づかされます。しかし、洗礼者ヨハネは罪を告白した者を追い返しはしなかった。彼を呼び、ヨルダン川に沈め、その手を取って起こす。そこに、罪ある者を赦し、受け入れられる神の愛を、人々は見たのでしょう。それは個々人の努力ではなく、神の懐の深さゆえに与えられる無条件、無差別に手渡される恵みに違いありません。だからこそ、噂はたちまち広まり、「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(3:5,6)のでしょう。
「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」(マタイ3:13~14)
先ほど、罪は的外れと申しました。イエスは常に神の御旨(意志)に従って生きられたと聖書は伝えています。つまり、イエスには何一つ「罪(的外れ)」はなかったと言えるでしょう。
「罪がないならば、イエスが『悔い改めの洗礼』を受ける必要はないのではないか?」そのように考えたのか、洗礼者ヨハネは洗礼を受けようとされるイエスを止めています。
「しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」(3:15)。
「正しい」という単語は、「義」とも訳されます。これは、神が正しいと考えておられるモノを指します。「罪(的外れ)」の対義語です。
イエスに罪があるのか、ないのかは問題にされていません。イエスは、「神は、人々の洗礼を望んでおられる。」というただ一つの理由で、ご自身も洗礼を受けられたようです。
「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(3:16,17)。
ルカ福音書には、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると・・・」(3:21)と書かれています。イエスは、一人だけ特別待遇をされたわけではなく、人々に紛れて洗礼を受けられたことが分かります。
皆が居る中、イエスが洗礼を受け終えたその時、天が開き、そこから「神の霊(聖霊)」が鳩のようにイエスの上に降った。そして、「これは我が愛する子。我、この者を喜ぶ。」(『新約聖書 訳と註 第一巻』,田川建三著,2008)という声が、天から聞こえたのだというのです。
イエスは、本格的に旅を始められる前に、人々に紛れて、彼らと一緒に洗礼を受けられました。
イエスに向かって天が開いたとは、その場にいた人々に対しても、天は開かれたということです。つまり、神と人々を分ける隔てが、取り去られたということでしょう。この時に開かれた天は、その後、閉じられたとは書かれていません。今もなお、神と私たちを隔てる壁は開かれたままなのでしょう。
また、イエスが洗礼を受けられたとは、罪ある者たちと同じ立場に立たれたということです。聖書の伝える「救い主」は、高いところに胡坐をかいて見物するのではなく、私たちと等しい者となられた。いえ、苦しさを背負い、痛めつけられ、私たちよりも低い場所に立たれるのです。
「洗礼」とは、私たちが神と共に新たに生き始めるために、遥か昔から続けられてきた儀式です。イエスとの確かな繋がりを思い起こしつつ、歩んでいきたいのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン」