マタイによる福音書3章1-12節
3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。 3:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」 3:4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。 3:5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 3:6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 3:7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。 3:9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 3:10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 3:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
「私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」
42.195kmを走る「マラソン」という競技があります。その名前は、紀元前450年の「マラトンの戦い」から付けられたそうです。ペルシャに勝利したことを、一人の兵士が40km離れた自国アテナイへと伝えるべく走りました。兵士はアテナイを目前に「我勝てり」と語って息絶えましたが、彼の勝利の宣言は、「エウアンゲリオン(良い知らせ)」と呼ばれ、現在に至るまで語り継がれています。この「エウアンゲリオン(良い知らせ)」という単語が、聖書では「福音」と訳されています。そのため福音とは、「皆が聴きたいと望む、良い知らせ」という意味で受け取ることができます。
さて、本日の聖書の内容では、洗礼者ヨハネという人物について語られています。彼はその活動や風貌から、非常に目立ったようです。
「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。・・・ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(マタイ3:1,2,4)。
荒れ野で暮らし、食事はいなごと野蜜。らくだの毛を身にまとい、腰には皮の帯を締めていたというのですから、非常に野性的です。野獣や盗賊に襲われる危険があるため、そのように生活する者は限りなく少なかったでしょう。
人々が関心を持ったのは、その姿だけではありませんでした。洗礼者ヨハネとの呼び名の通り、彼は人々へと「洗礼」という儀式を行ったのだというのです。
洗礼は、ヨルダンという川で行われました。方法は簡単です。川に全身を沈め、水から上がるだけです。どんな意味があったのか。水に沈むことで死を、水から上がることで新しく生まれることを表現したようです。
人々はこの「洗礼」から、どのようなメッセージを受け取ったのでしょうか。それは、「人生の再出発」です。しかも、神と深く関係する、新しい人生のスタートを見たのです。
当時、多くの人々は貧しい生活をしていました。道を通る、礼拝する、物を買うなど、生活の中で税金をたくさん支払わなければなりませんでした。畑を借りて耕しても、収穫した作物や野菜のほとんどは、畑の持ち主に渡さなくてはなりません。日照りが続いて収穫が少ない時には、足りない収穫分が借金にされてしまう。苦しい生活の中で神に祈っても、神殿の司祭の中には「祈りや献金が足りないから苦しみがなくならないのだ。」と言う人もいたでしょう。
せめてご飯をしっかり食べたい、子どもたちにひもじい思いはさせたくない、貧しくとも神さまに守られているのだという安心が欲しい。そのような、ささやかな幸せさえ叶わない中、人々は苦しんでいました。洗礼者ヨハネは、そのような人々へと「洗礼」を伝えたのです。
私たちには、神の居場所も、神のところに向かう方法も分かりません。どれだけ頑張り、真面目に生きたとしても、聖書の掟をしっかり守っても、多くの献げ物や献金をしても、分からないままです。
神の姿を見ることはできないし、その声を直接聴けないため、神の想いを知るためには聖書を読むしかありません。字が読めないならば、読める人から教えてもらうしかないのです。聖書の学者や神殿の祭司たちは、「努力すれば神に救われる」と教え続けました。時には、「あなたは神に救われない!」とまで言う者もいたでしょう。彼らの伝えるメッセージに、救いはありませんでした。
そのような中で、洗礼者ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3:2)という言葉を、人々に叫び伝えたのです。私たちには分からなくても、神は私たちを知っておられる。病気や怪我、年を取って歩けなくなったとしても、また、認知症になったり、いつか祈ることすら出来なくなったしても、神の方から近づいてきてくださるのだというのです。それは、この上ない安心です。
しかも、彼は荒れ野でそれを叫びました。そして、たくさんの人々へと洗礼を授けています。つまり、洗礼者ヨハネのところに向かった者ならば、誰一人漏れなく、「天の国は近づいた」という宣言を聴くことができたということです。まさに、これまで語られなかった「福音(良い知らせ)」が、洗礼者ヨハネを通して告げられたのです。
洗礼によって、人々は生まれ変わって新しく歩み始めました。神に近づくために先の見えない努力する日々は終わりです。一変して、神の方から近づいて来られるという安心を携えつつ、歩み出すのです。これから先も変わることのない揺るぎない約束が、人々に手渡されました。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ』」(3:3)。
洗礼者ヨハネは、イエスよりも先に人々のもとに遣わされました。彼の役割とは、神の方から近づいて来られることを告げ、新しく生き始めるための洗礼を授けることでした。それは、イエスの来られる道を整えることになるのだと言われます。
社会では、立場や財産などによって、一人ひとりの存在に優劣が付けられることがあるかもしれません。また、自らの手にある物を数えることで一時の安心感を得ることができるでしょう。
しかし神の前では、それらは何の意味も持ちません。なぜならば、一人ひとりが神の願いによって命を与えられた、かけがえのない存在に違いないからです。
神が近づいて来られるとは、私たち自身がそれほどまでに神に望まれ、喜ばれていることの証しでしょう。この福音を携え、新たに歩み出したいのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン」