「私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」
人は、生まれてから死ぬまでの期間を「生」と呼び、生命活動を終えた瞬間より後を「死」と定義します。この世に命が与えられた私たちは、いずれ漏れなく死を迎えます。ただ死んだ後のことを知る者は誰一人としていないため、人は想像するほかありません。そして、あらゆる宗教が死の先の理解を教えてきたのです。
最近、ライトノベルというジャンルの小説が、若者の間でよく読まれています。流行に合わせて、それらが漫画やアニメ、映画化していくのですが、最近特に多いのが死後に異世界に転生するというものです。現世での苦しさを抱えながら死んでしまった。その命が神に拾われ、特別な能力を与えられた姿で、しかも前世の記憶を残したまま、異世界で英雄として活躍していくという内容です。
このような物語が流行する背景には、この世を苦しみつつ生き、死んだ者が報われないまま忘れ去られていくことへの空しさが見えます。だからこそ、私たちの世では「全く役に立たない・生きる価値がない」とされた命、その空しさが、別の世界では皆から必要とされる新たな命に代えられるという希望へと繋げられているのでしょう。それは、「ひとたび与えられたこの命が無駄に終わらず、特別なものであるように」との願いの表れとも思えるのです。これも若い世代の持つ、一つの命の理解でしょう。
キリスト教では、「人は神に形造られて生まれ、死後、再び神にこの身を引き受けられ、神と共に新たに生きる」と語られます。生まれる以前から、死んだ後に至るまで常に神に望まれ、人は神と共に在るのだというのです。
聖書には次のように書かれています。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。・・・あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(15:5,16)。
私たちの命とは、生と死の期間を超え、キリストという幹に連なる枝で在り続けるのだと言われます。ぶどうの木は、吸い上げられた水分や養分によって枝を伸ばします。人もまた、個々の能力や地位という社会的な価値によって成長し実を結ぶのではなく、神に連なり、日々恵みを受け取る者なのだと語られています。
この場には、異なる宗教を信じる方、宗教に関わりなく過ごされている方もおられます。では、なぜ毎年召天者記念日に教会を訪れられるのか。それは、先に亡くなられた方々との関係が、今も繋がり続けているからです。生前に大切にされていたものを、信じる信じないは別として、尊重したい。私たちは決して忘れていない、生きていたころの姿が鮮明に思い出せる。その死を受け入れられない想いも、再び会いたいという願いも持ったまま、私たちは毎年この日を迎えるのです。
冬が来れば、ぶどうの木の葉は落ち、まるで枯れてしまったかのような侘しい姿になります。しかし、幹の内に確かに命があり、春が来れば再び青葉が芽吹き、枝は広げられる。そして、花を咲かせ、豊かな実をつけるのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」神が永遠におられる方であるならば、私たちという枝が朽ち落ちることはないのでしょう。死に対して、冬枯れのような侘しさを見ようとも、聖書はその先に待つ春の芽吹き、この先も断たれることのない繋がりを語ります。私たちが死を迎えるその時、先立たれた愛する者との再会がある。そして、その後には世に残してきた者たちとの再会という希望が待つ。これまで繋げられてきた命を、私たちは神に望まれ、神と共に生きるのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン」