ルカによる福音書17章11-19節
17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 17:12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 17:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 17:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
「私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」
本日も、ルカ福音書の伝える物語を聴きます。
「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った」(17:11-13)。
ヨルダン川周辺の地域は、古くから肥沃な土地だったと聖書には記されています。そのため、紛争の絶えない地域でもありました。
エジプトの奴隷状態だったユダヤ人の祖先は、40年の時を経て、強固な砦に住まう者たちを倒し、ついに「神が与えると約束された地」である、この地域に定住したのです。
しかし、周囲の民族と戦いは続けられていましたし、北から迫り来たアッシリア帝国やバビロニア帝国により、多くの民が捕囚され、北の地に連れていかれたのです。その際、移民政策が取られ、そこに他の地に住んでいた者たちや、ギリシャ文化が流れ込んできたのです。
捕囚が解かれて故郷に戻った時、様変わりした街並みに、民は驚かされたことでしょう。ユダヤ人は、血筋を非常に大切にするのですが、中には、他の地域から定住してきた者たちと結婚する者もおりました。「サマリア」は、その拠点となっていた町と言えましょう。
サマリアのユダヤ人も同じ神を信じ、同じ聖書を大切にしていたものの、彼らはエルサレム神殿以外の場所へと巡礼に行く。他民族と結婚をしたことも相まって、次第にエルサレム神殿を第一とするユダヤ人たちは、サマリアを差別するようになったと考えられます。
ガリラヤは、サマリアよりも北の地域です。エルサレム神殿に行くためには、サマリアを突っ切るのが近道だとしても、時間のかかる迂回路を通るユダヤ人も居たようです。両地域の交流は盛んではなかったのでしょう。
さて、サマリアとガリラヤの間に、村があったようです。両方の地域から来た者たちが、共同生活をしていました。本来関わりが少ないはずの彼らは、なぜ一緒に生活していたのか。その村に居た彼らに共通していたのは、「重い皮膚病」だったということです。
『旧約聖書』には、たくさんの掟が書かれています。それらは、「聖なる神」に認められた、「聖なる民」の心得と言えます。神の前に立つには、清い身でなければいけない。だから、宗教的な「けがれ」を負って神から見放されることの無いように、人々は掟を義務として守ったのです。
レビ記13章には、皮膚病に関する規定が細かく書かれています。
「もし、皮膚に湿疹、斑点、疱疹が生じて、皮膚病の疑いがある場合、その人を祭司アロンのところか彼の家系の祭司の一人のところに連れて行く。祭司はその人の皮膚の患部を調べる。患部の毛が白くなっており、症状が皮下組織に深く及んでいるならば、それは重い皮膚病である。祭司は、調べた後その人に『あなたは汚れている』と言い渡す。・・・重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ13:2-3,45-46)。
症状が改善される場合、2週間の経過観察中に隔離されるだけで、祭司から「あなたは清い」とされ、住んでいた場所に戻ることができます。しかし、炎症が治まらない者は、いつまで経っても隔離されたまま生活しなければならなかったのです。
交流の少なかっただろうサマリアとガリラヤから追い出された者たちは、居場所のないお互いを拒絶するのではなく、一緒に住んでいました。彼らの村を、イエスは訪れられたのです。
「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた」(17:12-14)。
病気になることを望む者は限りなく少ないでしょう。しかし聖書の掟が、治癒しない苦しさを背負う者へと、さらに人々の輪から排除し、帰る場所をも奪い去っていたのです。宗教的な「けがれ」が宣言されるわけですから、皮膚病になった者にとっては神から見放されたという宣言でもあったことでしょう。
しかし、イエスは彼らと出会い、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」という一言で、彼らを癒されたのだというのです。それは、彼らの病気だけではなく、人間としての生活の回復であったこととして、この物語は伝えられています。
マルコ福音書にも、重い皮膚病患者の癒しについて記されています。
「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。『だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。』しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」(マルコ1:40-45)。
以前この教会におられた沼崎勇牧師は、「障がいをもつ人に対する『ルターの差別発言』に関する日本福音ルーテル教会西教区の見解」の中で、次のように言われます。「いやしとは、単に病気を治すことではなく、人間の尊厳を守ることでもあります。」と。
隔離されている者たちと出会い、触れ、語りかける。これまで誰もしなかっただろうキリストのこの行動が、「周囲の人々と共に、この世を生きる」という彼らの尊厳を回復することとなった。ここに、キリストの癒しを見るのです。私たちは、このキリストの癒しを受け取る者であり、同時に語る者として遣わされているのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン」