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狭い戸口

Updated: Nov 1, 2020


ルカによる福音書13章22-30節

13:22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 13:23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。 13:24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 13:26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。 13:27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 13:28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 13:29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 13:30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先日、ある宣教師の友人と話す機会がありました。その時、彼は言いました。「私は天国も地獄も信じていて、天国には、キリストを信じる者だけが入れると思っている。」と。「私は素行が悪いから間違いなく地獄に落ちるだろう。」と返すと、彼は、「キリストを信じ続ければ大丈夫だ。」と、自信を持って励ましてくれました。

宣教師の彼は、聖書に絶対的な信頼を置いていました。だから、「たとえアルコール依存症の人がいても、神の言葉を聴き続ければ必ず治る。」と語るのです。聖書に書かれる「神の言葉には力がある」。それは、死ぬほど苦しい中で、聖書の言葉に励まされた経験がある方々は理解出来るでしょう。

しかし、神の言葉を聴こうとも、苦しい現状から脱することが出来るとは限りません。特に、依存症やうつ病などは、感情や努力の問題ではないのです。神の言葉に力があっても、受け取るのは弱さを背負いつつ生きる私たち人間なのです。

この世界には、地獄に落ちるに違いないと思える生き方をしている人もいるでしょう。キリストの言葉を知らないまま死ぬ人も、日本には大勢居ます。そこに救いはないのか。

聖書の言葉を聴き続けても、現状から抜け出せずに苦しむ人もいます。神の言葉を聴いても変わることの出来ないのは、信仰が弱いからなのか。そこに救いはあるのでしょうか。

本日は、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(ルカ13:23)との質問に、答えられたイエスの言葉を聴きます。イエスは、「狭い戸口から入るように努めなさい。」(24)と語り、一つのたとえ話を話されました。

「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう」(13:25-27)。

イエスを含め、聖書の登場人物の大多数はユダヤ人です。しかし、彼らはイエスを拒否し、十字架に磔にしました。ルカ福音書は、「かつてイエスと関わったことがあっても、従わなかった者は救われない。」という意味で、この物語を伝えています。著者は、キリスト教会に属さない、外部にいるユダヤ人全員が、狭い戸口から閉め出される対象として考えたのでしょう。彼らへと「あなたがたは……外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」(28)とイエスが語ったとしてるのです。

たとえの内容は異なりますが、マタイ福音書では、主人から一タラントンを預かった僕たちのたとえ話の中で、それを埋め、活かさずそのままの金額で返した僕に対して次のように語られています。「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(25:30)と。神から預かった賜物は活かすべきであり、それを埋めておく者は暗闇に放り出されるのだというのです。これは、キリスト教会に属する者たちに向けた批判です。

このように同じイエスの言葉でも、著者それぞれの理解で、全く対象や意味が異なってくるのです。

さて、「救いに通じる狭い戸口があり、そこから閉め出される者が居る」とイエスが語ったこととして、聖書はそれを書き残しています。ルカは、従わなかったユダヤ人全員、つまりクリスチャン以外は救われない。一方、イエスを信じるならば外国人でも救われるという意味で受け取ったのでしょう。

一方マタイ福音書では、キリスト教会の中にも、神の恵みを蔑ろにするなど、生き方次第では救われない者が居るという書き方で伝えられています。

では、イエスはどのように生きられたのか。「十字架につけろ、十字架につけろ」(23:21)と叫び続け、自らを死に追いやった者たちを恨まれたのでしょうか。はたまた、その叫びの最中逃げ出した弟子たちの内、好みによって受け入れる者と許さない者を選ぶ方なのでしょうか。決してそうではないでしょう。

ペトロの手紙Ⅰでは、イエスの死について次のように語られています。

「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。……そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(2:24)。

聖書の語る「罪」とは、「的外れ」を意味します。クリスチャンもそうでなくとも、神の御旨(意志)が理解し得ない、つまり的外れだからこそ、聖書は全ての人間の罪を明らかにします。イエスの十字架とは、その罪ある者一人ひとりの姿を知った上で、神がなお私たちを赦し、受け入れられたことの証しなのです。

イエスの十字架の前では、私たちの信じる信じないという選択は、些細な問題です。神が私たちを受け入れる選択をされた。この神の選択のみが、私たちへと救いを手渡すのです。

救いに至る戸口は狭いと語られます。しかし、イエスは人々の只中で、十字架にかけられ、死なれました。それは、どのようにしても狭い戸口をくぐることが出来ない私たちために、イエスの方から戸口をくぐり、こちら側に来てくださったという出来事でしょう。

決して一括りにはできない、生まれも立場も違う多種多様な人々がその場に居たことでしょう。それを承知の上で、イエスは私たちの只中に身を置かれたのです。救いとは、目指す先ではなく、キリストが共におられる現実から起こされます。狭い戸口を誰が通れるかという問題はさて置き、こちら側に来られたイエスの姿より神の救いを考えたい。神の赦しと愛に、大いに期待しつつ歩んでいきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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