ルカによる福音書12章49-53節
12:49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 12:50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 12:52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。 12:53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」
私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先日(8/7~9)、日本福音ルーテル長崎教会をお借りし、九州教区の中高キャンプが行われました。テーマ・主題聖句は、『わたしの平和を与える』~世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。~です(ヨハネ14:27)。
内容ですが、映画「沈黙-サイレンス-」(2016年)を鑑賞し、原作者である遠藤周作文学記念館を訪れました。そして、隠れキリシタンが暮らしていた場所の近くにある資料館や、鎖国解除後に長崎で活動されたマルコ・ド・ロー神父の軌跡を辿りました。
また、原爆投下74年を覚え、被爆体験の継承者からお話を聴いたり、学校の講演会にお邪魔して、原爆の絵を元に紙芝居を出版されたアーサー・ビナート氏の講演を聴くことが出来ました。内容は幅広かったものの、ゆったりとしたキャンプの中で、中高生それぞれが大いに刺激を受けたようです。
私は幼い頃から、「今の日本は平和だ」という言葉を幾度となく聴いてきました。「軍隊を持たず、戦時下に無い」ということを表現し、そのように言われてきたのかもしれません。
けれども私の周りでは、苦しさの只中で自ら死を選ぶ友人がいました。全国的に見れば、現在でも3万人ほどの人が自ら命を絶っています。関わりの中で、生き苦しさを感じる人ともたくさん出会ってきました。
また、大きな自然災害が近年でもたくさん起こっています。現地で、身近な人を突如失った痛みの声を聴きました。
政治を見ても、日本自体が戦時下に置かれていなくとも、私たちの国は兵器の開発を通して、戦争に大いに関係する位置にあります。最近では、「攻撃される前に、いつでも攻撃できる準備をしなければいけない。」という声も大きくなっています。
「日本は平和だ。」という言葉の裏には、「自分たちが無事なら良い。」という言葉が隠されているように思うのです。「身近な人が幸せであればそれでいい。」と心のどこかで思う、その居心地の悪さが、私の中にいつもあるのです。イエスは、そのような私と対峙するのです。
「また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、『立って、真ん中に出なさい』と言われた。その人は身を起こして立った。そこで、イエスは言われた。『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。』そして、彼ら一同を見回して、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった」(6:6-10)。
萎えた手の癒やしは、この際考えません。問題は、礼拝を行う会堂で癒やしを願っていた人が居るのを知りつつも、皆が彼を端に追いやったまま無視していたことです。
イエスは、手の萎えた人を皆の真ん中に呼び、彼を癒やすことで、誰かを蔑ろにしつつ保たれる平和を壊されました。神の国とは、彼が真ん中に立つことの出来る場所であることを、その態度をもって示されたのです。多くを持つのでも、何かを為すことで認められるのでもなく、存在している時点で命あるその人が貴ばれる。それが神の国という場所なのでしょう。
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。……あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである」(12:49,51,52)。
歩みの速い者を筆頭に、社会は進んでいきます。十人十色と言われるように、皆が足並みそろえて生きることなど不可能です。その時、歩みの遅い者、道から外れたと思われる者は、社会の輪、そのコミュニティから排除されることとなるのです。同時に、歩調を合わせられない人は、「得体の知れない、理解出来ない存在」として扱われます。
人は、「知らない・分からないもの」に恐怖を感じます。幽霊や妖怪、死などがそうでしょうか。人に対しても同じです。特に、関わりのない海外の人に対して疑心暗鬼になる気持ちも、ここから来るのでしょうか。
少なくとも、仲良しグループに入ることの出来ない者は、得体の知れない人物として関わりを避けられます。それは、私たちの身近にある問題で、社会の中に建つ教会でも起こりうることなのです。
イエスの言葉は、私たちの間にある平和に見える現在を破壊します。皆と仲良くなれる人が世界を見渡してもほんの一握りであり、また、知らない・分からないものに恐怖を感じてしまう、私たちの作り出せる平和には限界があるのでしょう。
『わたしの平和を与える』「世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27)。
私たちには今、聖書を通してイエスの生き様が伝えられています。誰と出会い、どのように関わられたのか。受け入れがたい彼らのために、イエスは何を果たされたのか。それを私たちは知らされているのです。
イエスは、決して得体の知れない者たちのために十字架への道を進まれたのではありません。一人ひとりの人生、その胸の内まで知っておられたからこそ、一人ひとりのためにその命を十字架に磔にされたのだと受け取りたいのです。
今、私たちは復活されたキリストによって知られ、なお生かされています。死んだ方が世のためだと思えるこの身を生かされるキリストは、この世界に生きる一人ひとりをどのように受け止めておられるのでしょうか。私たちの「知らない・分からない得体の知れない「敵」をも知っておられ、なお生かされる神の御心(意志)を、私たちは聴くのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン