ルカによる福音書12章13-21節
12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
イエスの時代のユダヤ人の住む地域は、ローマ帝国の監督下に置かれていました。ローマ帝国は、監督する地域の統治を現地の権力者に委ね、統治者へとある程度の自由を保障することと引き替えに、税金を納めさせました。
ユダヤ人の住む地域は、ヘロデ王家の三人の息子によって分割統治されていました。彼らが良い暮らしをするためには、ローマ帝国への税を上回るお金や収穫物を、民から搾取する必要があります。民に課せられた税が、非常に重かったことが想像できます。
また、ローマ帝国やヘロデ王家以外に民を苦しめたのは、神殿への献金や捧げ物です。神殿専用の硬貨に両替する時の手間賃、いけにえの儀式を行うための動物の購入費に加え、あらゆる場面で規定ごとに捧げ物が決められていました。中には、夫を失った女性から財産を搾取する指導者もいたようです。イエスは、彼らのそのような姿勢や神殿の現状を批判しておられます(ルカ20:47)。
「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか』」(ルカ12:13,14)。
親の遺産があるということは、質問者の家庭が豊かだったことを意味します。しかし、イエスは彼の財産の問題に関わることを拒否し、周囲の人々に対して言われました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(12:15)と。その場には、質問者以外にも裕福な者が居たのかもしれません。イエスは、有り余るほどの財産に囚われることを批判し、さらに彼らへと一つのたとえ話を語られたのです。
「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と』」(12:16-19)。
イエスの時代、自らの畑を持たず雇われ農夫として生きる者は珍しくなかったようです。広場に立って日雇労働を得ようとする者もいたようですから、自分の土地を持つ者は裕福だと言えるでしょう。
たとえ話の金持ちは、長年働かなくて良いほどの蓄えを得ました。幾ら豊作の年だったとしても、個人の限られた土地では、それほど豊かになるとは考えられません。つまり金持ちの男は、地主として小作人に畑を貸し出していたということでしょう。
さて、すでに幾つもあった倉でも、その収穫物の全て収納することができなかったため、金持ちの男は古い倉を壊し、さらに大きな倉を新たに建てました。そして、多くを蓄えた自分自身へと「食べたり飲んだりして楽しめ」と語りかけたのだというのです。
「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」(12:20)。
いかに多くの蓄えを得ようとも、死の先にそれらを持って行くことはできません。イエスは、神によって「お前は明日死ぬ」と語られてしまった金持ちの空しい最期を語ることで、たとえ話を締め括られます。
『旧約聖書』で「神の祝福を受ける」と言われる時、それは多くの土地や家畜、家族を得ることを指します。そのため古くには、金持ちとは神の祝福を受けている証拠だと考えられたことでしょう。しかし同時に、「貧しい者や旅人と共に食べ物を分かち合え」という社会保障のような掟もありましたから、飢えと渇きの中に放置される者はほとんど居なかったと考えられます。
けれども、イエスの時代に至ると、神への信仰は個々人の領域で考えられるようになります。そうなると、貧しさは個々の信仰生活に対する神の審きとして受け取られ、自業自得という言葉によって飢えの中に放置される者が生じても当然です。困難な生活をする者を保障するどころか、加えて鞭打つような社会です。イエスは、二重三重の搾取を受けつつも、働けど貧しさから抜け出せない者たちの生活を知っておられたのでしょう。
先ほども申しましたが、長期間働かずに飲み食いできる蓄えとは、本来、金持ちの男一人の力では得ることのできないはずの豊かさです。彼の豊かさの背後には、汗水垂らして働いた小作人たちの労働があったということです。彼の蓄えとは土地を貸し出すことを条件に、労働者たちから多くを搾取した結果だと言えましょう。
貧しさの中で苦しむ人々がいることを尻目に、人が手にできる物以上を手にし、豊かさを誇る金持ちとは、イエスにとって腹立たしい対象だったに違いありません。だからこそ、鋭い切れ味を持つ一つのたとえ話を、この時イエスが語られたのだと受け取りたいのです。
この怒りこそ、苦しさの只中に置かれる私たちを知るが故のイエスの社会への挑戦であり、同時に、時に驕る私たちへと向けられるイエスの想いでもあるのです。
私の友人は、20代の初めから老後の蓄えを気にし続けています。「将来の保障がないと安心できない」そうです。しかし、イエスは言われます。「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(12:25)と。
自ら積み上げる蓄えとは、命あればこその豊かさであり、死んでしまえばその一切を手放さなくてはなりません。しかし私たちは、聖書を通して知らされているのです。十字架の死という暗闇の只中から、復活の出来事を起こされたように、この命が神の御手の内にあることを。死の先でも変わることのない、「神が共にいる」(マタ1:23)という約束を、今受け取りたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン