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祈り

Updated: Nov 1, 2020


ルカによる福音書11章1-13節

11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。 11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 11:4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」 11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

キリスト教会では、「祈り」が大切にされています。「神との対話」と呼ばれるお祈りによって、日常の出来事や私たち自身のことなど、胸の内にある想いや願いを神に伝えるのです。

教会では、人前で祈りが行われることがあります。長い信仰生活で培われてきたそれぞれの祈りは、真似をしたくなるほど立派に思えます。

私は幼い頃から祈ることが苦手でした。他者に注目されて頭が真っ白になり、何を祈れば良いか分からなくなるし、何よりも上手な言葉で祈ることが出来なかったからです。

「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った」(ルカ11:1)。

弟子たちは、イエスへと「どのように祈ればいいでしょうか」と尋ねました。どうやら、他の人に弟子入りしている者たちのグループが、その師匠から祈りの言葉を教わったことを聴きつけたようです。

「そこで、イエスは言われた。『祈るときには、こう言いなさい。「父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください」』」(11:2-4)。

「主の祈り」は、このイエスが弟子たちへと教えられた祈りが整えられたものです。しかし、実は原型となる祈りがあるのです。それが、「カデシュの祈り」です。(現在でもユダヤ教において用いられているそうです。)

「 大いなる御名があがめられ、聖められんことを、御心のままに創造された世界にて。

汝らの生涯と汝らの時代において、またイスラエルのすべての家の生命あるうちに、その御国が一刻も早く実現されんことを。

(これに対して人々は)アメーン(と唱えよ)。」

(田川建三『イエスという男』作品社 2004年/P.21)

ユダヤ人は、『旧約聖書』の時代から、神への祈りを大切にしていました。礼拝堂で、町中で、各家庭で祈り続けられてきたのです。そして長い歴史の中で、祈りの形式が整えられていきました。カデシュの祈りは、長い祈りの間に唱えられた短い祈りの言葉だそうです。

イエスは、その当時の宗教指導者たちを、次のように表現しています。

「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」(20:46,47)。

立派な人間だと注目されることを好み、立場の弱い者から財産を搾取する宗教指導者たちの在り方を、イエスは批判しています。だからこそ、彼らのように長々と祈るのではなく、短いカデシュの祈りをさらに短縮して、イエスは弟子たちへと伝えたのでしょう。

「父よ」という呼びかけは、子が親を呼ぶ時につかう現地の俗語です。イエスは、神へと私たちの言葉で「お父さん」と呼ぶように教えるのです。

また、人は神を敬おうとするあまり、(上記の下線のように)たくさんの言葉をくっつけたくなります。「大いなる」「全能の」「天にまします」など、加え始めたらキリがありません。しかしイエスは、「御名が崇められますように。御国が来ますように。」と、短く言い終えてしまうのです。神の名があがめられ、神の国が来て欲しいという願いは、その一言で十分伝わるはずです。

さらにイエスは、カデシュの祈りにない言葉を付け加えておられます。「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」と。ローマ帝国の間接的な支配、ヘロデ王家による統治、宗教指導者との関わりの中で、人々は二重三重に搾取され、厳しい生活を送っていました。イエスが生きたのは、そのような現実です。人はパンのみで生きるわけではないけれど、今日の命を繋ぐ糧の重みを、人々と共にイエスも知っておられるのです。

負い目を背負うこと、誘惑を受けることについても同様です。その困難を知るからこそ、イエスは難しい形式的な宗教用語ではなく、私たちの置かれた現実の言葉で祈れるよう、教えてくださったのです。

「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。……あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(11:9,10,13)。

現在の教会でも、伝統的・形式的な祈りがあります。その堅苦しさが、神を遠い存在と感じさせてはいないだろうか。祈りを妨げるものとなってはいないでしょうか。

「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6:6)。

私たちは「捧げる者」ではなく「受ける者」です。私たちは今、父と呼びかけることのできるほど、神と深い関係で結ばれています。父として私たちへと最も良い物を手渡そうと望まれる神に、この身を委ねたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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