2025年2月15日・16日 顕現後第六主日
福音書 ルカ6:17~26 (新112)
6: 17イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、 18イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。 19群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
21今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
顕現節の終わりに向けて今日も聖書を読んでまいります。先週はイエス様が漁師を弟子にされるお話を聞きましたが、その後イエス様は各地で人々を癒し、十二人の弟子を選ばれ、今日の舞台である「平らな所」に来られます。そこにはイエス様の教えを聞くために方々からたくさんの人が集まっていました。そこでイエス様は口を開き、弟子たちに四つの幸いと四つの不幸について教え始められます。いわゆる「平地の説教」と呼ばれている講話です。この「平地の説教」の前半ではイエス様が四つの幸いと、それと対をなす四つの不幸について語っておられます。今日はこの前半部分を読んで、後半部分はまた来週読むことになります。
四つの幸いというのは「貧しい人々は幸いである」「今飢えている人々は幸いである」「今泣いている人々は幸いである」「人々に憎まれるとき、あなたがたは幸いである」というものです。反対に四つの不幸というのは「富んでいるあなたがたは不幸である」「今満腹している人々は不幸である」「今笑っている人々は不幸である」「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」というものです。人間にとって本能的に望ましくないと思われる状況が「幸い」であり、望ましいと思われる状況が「不幸」であるという、とっても変わった教えです。
この教えを日常生活の中でどう解釈するかというのは難しいところですが、私は基本的に、これを聞いたからといってわざわざ望ましい状態を手放す必要はないと思っています。私たちは無理やり貧しくなる必要もありませんし、わざわざ人に憎まれるようなことをする必要もありません。人間にとって望ましくない状態というのは、放っておいても、人生のどこかのタイミングで必ずめぐってくるからです。そんなに心配しなくても、私たちは生きているだけで、自然と欠乏や不調和に出くわすのです。
そんな時にこのイエス様の言葉は私たちの力になってくれると思います。聖書の時代の人々は今の私たちよりももっともっと大変な生活をしていましたから、「私は貧しい」「私は飢えている」「私はだれにもほめてもらえない」と思う機会はたくさんあったと思います。そういう人々、そういう私たちの人生全体に対して、イエス様はこの特徴的な教えを語られています。
最大の特徴はイエス様は貧しさや、飢えや、悲しみや憎しみをただの不幸とは捉えていないということです。それらは人間が本能的に最も嫌うものです。またイエス様の時代において、それらは神の罰とも捉えられていました。人々は貧しさや悲しみの中に何の肯定的な意味づけも見いだせず、ただ悲しい苦しい、これは私や先祖が犯した罪に対する罰なのだ、恥ずかしいことだと思って生きていくことを余儀なくされました。
そこに現れたのがイエス様です。イエス様はあの山のふもとで、目を上げて、弟子たちに向かって「貧しい人々は、幸いである」と言われました。そして「神の国はあなたがたのものである」と言われました。今飢えている人々は満たされ、泣いている人は笑い、イエス様を信じているせいで人に憎まれたことをいつしか誇りに思うようになると言われたのです。神があなた方に与えた苦しみは、決して苦しみでは終わらない、それは大いなる喜びにつながっているのだとイエス様は教えておられます。
そう言われてもできれば不幸な目には遭いたくないですが、そもそも人間は、自分が満たされていて幸せな時には神様なんか求めません。そういう究極のものに目を向けなくても、自分の身近なものでとりあえず事足りているからです。私たちが何かについて一生懸命思いめぐらすのは、決まってそれが欲しいと思っている時、それをまだ手に入れていない時です。例えば新しいパソコンが欲しいと思っている時、買う前に一生懸命にパソコンのことを調べます。同じように一生懸命愛について考えるのは、愛が欲しいと思っている時、愛を手に入れていない状態の時です。自分に満足している時、人は神様の力を必要としません。人が真実の愛を求めるのは、愛を失う経験をした時です。人が永遠の命を求めるのは、命の有限さが切なくなった時です。人が無限の豊かさにあこがれるのは、自分の生活に欠乏を感じた時です。
ご存じの通り、神様は真実の愛、永遠の命、無限の豊かさそのもののお方です。御心のままに、私たちにそれを与えることができます。しかしそれを受け取るのは私たちです。私たちが本当にそれが欲しいと思っていなければ、いくら神様が真実の愛や永遠の命を差し出してくれたところでいらぬ贈り物、単なるお節介になってしまいます。だから私たちの人生には、失うという体験、終わってしまうという体験、足りないという体験が起こります。それらの不幸の門をくぐって、まことの幸いを求め、それを受け取るためです。
ですからイエス様は、私たちが地上で経験するこれらの望ましくない状況に対して、神様の視点から、新しい意味を与えられ、悲しみや欠乏のその先に、私たちを導こうとされています。人間は人生がうまくいっている時には自分の話なんか真面目に聞かないとイエス様はよくご存じです。イエス様の目から見れば、人間がうまくいっていない時、人勢に疑問を感じている時、これまで通りでは行かなくなった時、そういう時がイエス様の出番です。そういう経験をしている人に対してイエス様は他の人よりも特別に目を注ぎ、より一層支えてくださっています。
そうしてイエス様は語りかけるのです。「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。いま泣いている人は幸いである。あなたがたは笑うようになる。」私たちには地上の失望や欠乏を通して、神のもたらす究極なるもの、神の本質を求める心が起こされます。神の本質とはすなわち真実の愛、永遠の命、無限の豊かさ、全き善です。これらを知り、これらを受け入れ、これらを実際に生きていくことが私たちの本当の幸いです。つらいことや苦しいことがあったとき、私たちはこのイエス様の言葉を思い起こしましょう。そしてお互いに助け合ってまいりましょう。
2月15日・16日 教会の祈り
司)祈りましょう。
全能の神様。社会福祉法人光の子会のために祈ります。光の子会の利用者のみなさん、職員のみなさん、そして組織を支えるルーテル教会を顧みて、祝福してください。光の子会の営みを通して、ますます主の栄光が証しされますように。
(門司・八幡・小倉)
恵みの神様。明日/今日行われる北九州マラソンをおぼえて祈ります。1万人を超える参加者の方々の体調が守られて楽しい思い出となりますように。運営に当たる関係者のみなさんのこともお守りください。あなたがこの北九州の地をますます祝福してくださるように祈ります。
(直方)
恵みの神様。あなたは私たちの人生を導き、時に応じてさまざまな出来事を用意しておられます。私たちが幸せな時も不幸な時も、喜ぶ時も悲しむ時も、どうぞそばにいてくださって、私たちをお守りください。すべてはあなたが備えられたことであると、私たちにますます信じさせてください。
慈しみの神様。寒い日々が続いています。そのような中にあってどうか私たちの体調をお守りください。特に、入院中の方、病気療養中の方、お一人暮らしの方が無事に過ごされますようにお祈りします。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。
会)アーメン
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