top of page
Writer's picturejelckokura

主の洗礼

2025年1月11日・12日 主の洗礼

ルカによる福音書3章15~17節と21~22節


福音書  ルカ3:15~17,21~22 (新106)

3:15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

 

3:21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


今日は主の洗礼の主日です。この日私たちはイエス様が洗礼を受けられたことを記念し、自分の受けた洗礼について思いを新たにします。私たちの多くは洗礼を受けてここに集っていますが、洗礼とは何か、ということを説明するのは意外と難しいものです。実際に洗礼の意味というのは一つではありません。「イエス・キリストと一体になること」「教会への統合」「新しい誕生」「罪の赦し」「聖霊を受けること」など、主なものでも五つあると言われています。しかしそれもよく考えてみれば自然なことで、「働く意味」や「家族の意味」が複数あるように、私たちにとって身近で重要なものほど、一つの言葉のうちにたくさんの意味を含んでいるのだと思います。


そんな様々な意味を持つ洗礼という行為ですが、みなさんはご自分が洗礼を受けた日のことを覚えていらっしゃるでしょうか。赤ちゃんの時だったので覚えていないという方もおられるでしょうし、悩んだ末洗礼を決意したのでよく覚えているという方もおられるでしょうし、学生時代になんとなく勧められるまま受けましたという方もおられると思います。私たちにとってそれぞれの洗礼の重みは違っているように見えながら、神様の目にはどの洗礼にも同じ価値があります。先ほど私が申し上げた洗礼の五つの意味「イエス・キリストと一体になること」「教会への統合」「新しい誕生」「罪の赦し」「聖霊を受けること」これはどれも、神様が与えてくださることであって、人間には作り出すことができないものだからです。


そもそも私たちが洗礼を受ける時には、罪が赦された実感や聖霊を受けた実感を伴わないことが普通です。それは神様が見えないところで与えてくださっているものなので、試験に合格した時や欲しいものを買ったときのような明らかな、私たちが人間として慣れ親しんできたような手ごたえはありません。もちろんその実感できないものを少しでも実感するために、私たちは洗礼に向けてこつこつ勉強会をしたり、日々祈ったり、特別な服を着たり、盛大にお祝いをしたりするわけですが、洗礼を受けてみると「意外と普通だった」とか「何も起こらなかった」みたいに口にされる方も少なくありません。加えて「小さかったので何も覚えていない」人たちも数多く存在します。


しかしその実感のなさこそが、私たちが神の国の一員になったということのしるしです。洗礼を受けた人たちは、その日から、「目に見えないものを信じる」「手で触れられない方を主とする」という生き方に招き入れられます。神様を信じるということは、受験に合格するように、努力して神様に認めていただくこととは違います。神様の恵みを手にするということは、私たちがお金をためてほしいものを手にするということとは違います。そのような私たちの慣れ親しんだ在り方から、何もしなくても愛されていて、無限に恵みが与えられていて、何があっても自分は絶対に一人ではないという、私たちが今まで味わったことのない生き方が始まるのです。その今まで味わったことのない生き方の始まりとして洗礼があるならば、洗礼というのは私たちが地上の生活で経験してきた何とも違う経験となるでしょう。だから実感がない、だから覚えている必要がないのです。


私たちにとって洗礼は神秘です。聖書は難しいです。自分に信仰があるのかよくわかりません。でも神様はそれが問題であるとは思っていません。そもそも私たちにとって易しいもの、私たちにとってわかりやすいものというのはすべて、私たちが繰り返し経験してきたから、私たちが繰り返し学んできたからそのように感じられるのです。しかし神様は、洗礼を通して、そしてそこから始まる信仰生活を通して、私たちがこれまで味わったことのない世界に私たちを招いてくださっています。どんな私たちであっても変わらず注がれる愛、もらってももらっても尽きることのない豊かさ、学んでも学んでもなお解けない神秘、その愛と豊かさと神秘を生きるようにと神様は私たちを招き、洗礼という儀式をその入り口に置いてくださったのです。


洗礼によって私たちはイエス・キリストと一体となります。しかしそのことを簡単に実感することはできません。イエス様は親や結婚相手のように私たちと一緒に住んでくれるわけではないからです。しかし人間同士が経験するどんな一体よりも一体となって、イエス様は私たちと共にいてくださいます。洗礼によって私たちは新しく生まれます。しかしそのことは目に見えません。私たちの体は若返らないからです。それでも神様は、見えないところで私たちを新しく生まれさせ、私たちがこれまで慣れ親しんできた「手ごたえはあるけど欠乏している(不完全な、有限の)」世界から、私たちが神と共に生きる「手ごたえはないけどすべてがある」世界へと移してくださいます。罪の赦しも、聖霊の付与も、すべてのことが、私たちには経験のない、しかし神様にとっては確かなやり方で起こります。


私たちは洗礼によって新しく生まれました。この新しい世界は、先ほど申し上げたように「手ごたえはないけどすべてがある」世界です。「手ごたえはないけどすべてがある」。私たちはその「手ごたえはない」というところにばかり目を向けてしまいますが、本当に大事なのは「すべてがある」ということの方です。私たちは神様が目に見えない、聖書が難しい、信仰に確信が持てないと言って悩みます。常に手ごたえを求めるというのが人間の習い性だからです。これまでの生き方を神様との関係にも当てはめて、神様が目に見えれば、聖書がもっとわかりやすければ、もっと自分の信仰に自信が持てれば、それが良いことであると考えます。だからそういう手ごたえを求めて、自分なりに頑張って、いつしか道に迷っていきます。


しかし神様が私たちに与えてくださるのは「手ごたえはないけどすべてがある」世界です。神様の普通は、人間の普通とは違います。洗礼という入り口を通った人は、人間の普通を離れて、神様の普通を生きることになります。それは「手ごたえがない」に目を向けずに、「すべてがある」に目を向けるということです。実際に聖書には「神様が見えるようになる方法」とか「神様の言葉をわかりやすく翻訳する方法」とか「信仰検定に合格する方法」とか書いているわけではありません。必要ないからです。聖書に書いてあるのは、見えないものを信じること、神の言葉を神の言葉として受け取ること、今の自分の信仰を信仰として生きていくこと、その価値です。神様が求めておられるのは、神様にとって最も自然なのは、その価値を味わって生きることだからです。


洗礼を受けるということは不思議なことです。私たちにとってこんなに大事なことなのに、何の実感もなく、何も変わらず、覚えている必要さえないかのようです。しかしそれは私たちが「手ごたえはないけどすべてがある」という生き方に招かれているということのしるしです。「手ごたえ」の方に目を向けるのは終わりにして、「すべてがある」ことの方に目を向けましょう。洗礼を受けた私たちには、神様の尽きることない愛、無限の豊かさ、終わることのない命が与えられています。その手ごたえはないかもしれません。でも、それらは今この瞬間も確実に存在し、私たちを守ってくれています。この一年もご一緒に「すべてがある」世界に目を凝らし、一歩ずつ信仰の旅路を歩んでまいりましょう。


1月11日・12日 教会の祈り

 

司)祈りましょう。

 

慈しみの神様。明後日/明日は成人の日です。今年成人を迎えられた方々をあなたが祝福して、これからの歩みを希望に満ちたものにしてください。また、さまざまな事情で、成人式を迎えることなく天国へ召された方々とそのご家族にもあなたからの慰めを祈ります。

 

全能の神様。来週/今週行われる大学入学共通テストをお守りください。受験生のみなさんの体調が守られ、力を出し切ることができますように。応援しておられるご家族のみなさん、教育関係者のみなさんのこともあなたがお支えください。

 

恵みの神様。あなたは洗礼を通して私たちを神の子として新しく生まれさせ、罪の赦しと永遠の命を与えてくださいました。私たちがこのことに感謝し、いつもあなたの愛を感じながら生きていくことができますように。

 

私たちの主イエス・キリストによって祈ります。

会)アーメン

3 views0 comments

Recent Posts

See All

主の顕現

2025年1月4日・5日 主の顕現 マタイによる福音書2章1~12節 福音書  マタイ 2: 1~12 (新2) 2:1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 2言った。「ユダヤ人の王としてお...

Comments


bottom of page