イエスとは
- jelckokura

- Jul 7, 2019
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ルカによる福音書9章18-27節
9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 9:19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」 9:20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」 9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、 9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」 9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。 9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。 9:26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。 9:27 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」
私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
本日の内容では、イエスが何者であり、これから何を果たされるのかについて語られています。
この直前の聖書の箇所には、ベトサイダという町の周辺での出来事が記されています。イエスが、手元にあったパン五つと魚二匹を割いて弟子たちに配らせることで、その場に集まっていた5000人を満腹させた。そして、余った屑を集めてみると、12の籠がいっぱいになったのだというのです。その元手がパン五つと魚二匹であることを知っていたのは弟子たちだけだとしても、それだけ多くの人びとに食事を振る舞ったイエスの噂は、瞬く間に伝えられたことでしょう。
「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、『群衆は、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった」(ルカ9:18)。
弟子たちの言葉によれば、人々はイエスのことを「洗礼者ヨハネ」、「預言者エリヤ」、「かつての預言者が甦った」などと噂していたようです。それは、彼らにとっての救い主のような、偉大な人物たちでした。
ヨルダン川の東側一帯は、『旧約聖書』では「カナン」と呼ばれており、昔から作物やフルーツが採れる肥沃な土地があったようです。それゆえ、民族間の争いの絶えない地域でもありました。
イスラエルの民(ユダヤ人の祖先)は、預言者モーセによってエジプトの奴隷状態から解放され、荒野を40年放浪した後、カナンを征服しました。しかし、彼らもまたアッシリアや新バビロニアに征服され、捕囚の日々を過ごすこととなります。ペルシャによって新バビロニアから解放された後にも、独立戦争などがあり、平穏な日々とは言えませんでした。
イエスの時代、その一帯はローマ帝国の監督下に置かれていました。(ローマ帝国は、監督下に置いた地域をその土地の権力者に委ね、税金を納めさせる方法を採り、広範囲を掌握することに成功しました。)このような背景もあり、ユダヤ人たちは独立した自分たちの国を求めていたし、皆を率いる「救い主(メシア、キリスト)」が現れるのを待ち望んでいたのでしょう。だからこそ人々は、彼ら自身が求める救い主のイメージと重ね、イエスを見ていたのでしょう。
「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『神からのメシア(キリスト)です』」(9:20)。
一緒に旅をした弟子たちも、イエスへと他の人々と同様の期待を向けていたことが、ペトロの告白から分かります。しかしイエスは、「そのようなことは誰にも言うな」と弟子たちを叱られたのだというのです。
イエスは救い主として、この世を、そこに生きる一人ひとりを救うために来られたのではないのか?なぜ、ペトロの告白を拒否されたのでしょうか。それは、人々の思い描く「救い主」のイメージが的外れであったからではないかと思うのです。
イエスは言われます。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。……わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(9:22,23)。
ルカ福音書の著者は、「イエスに従うならば、各々の重荷を背負いなさい」という精神的な内容として記しています。
しかし、私たちはイエスが実際に十字架を背負い、そこに磔にされ、殺されたことを聖書を通して知らされているのです。つまり、「わたしに従うとは、文字通り十字架を背負うこと、命を失いざるをえない道を進むということなのだぞ」と、イエスは弟子たちに教えておられるのです。
「救い主、救世主」と聴くと、敵を打ち倒して苦しむ人々を抑圧から解放し、皆に賞賛される人物を想像します。人々がそのような救い主をイメージし、待ち望んでいたとすれば、イエスとは正反対の道を進まれた方です。そして何も果たせずに殺されてしまったならば、世間的に見れば敗北者です。確かに、イエスは人々の望むような目覚ましい成果を上げたわけではありません。だからこそ、十字架に磔にされるイエスを尻目に、従って居た者たちは逃げ去ったのでしょう。
昔から「出る杭は打たれる」と言われますが、イエスとは、社会にとって打っても打っても出てくる杭でした。しかしなぜ、打たれ続けても、イエスは出る杭であることをやめなかったのか。それは、そこに苦しむ者の叫びや呻きがあることを、また、声をあげられず、誰の目に留められない小さくされた者を、知っておられたからでしょう。
権力者と衝突が起ころうとも彼らと出会い、関わり、ついには十字架に磔にされた。弱さのうちに死なれたイエスに、救い主の姿を見るのです。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(22)。
出る杭は殺されて引き抜かれたのか。否、イエスは死の後三日目に復活したと伝えられています。そして、聖書を通して今もなお、この社会の出る杭として、私たちに気づきを与え続けてくださるのです。
私たちには、イエスと共に十字架を背負うことはできませんが、なぜイエスが出る杭で在り続けるのかを考えることは出来る。与えられたもどかしさや葛藤の中で、イエスの生き様に触れたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン


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