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居場所

  • Writer: jelckokura
    jelckokura
  • Mar 31, 2019
  • 7 min read

ルカによる福音書15章11-32節

◆「放蕩息子」のたとえ 15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

本日は、教会で「放蕩息子のたとえ」としてよく知られている、イエスの語られた「たとえ話」を聴いてまいります。

「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」(15:12,13)。

本来、父親の死後に分けられるであろう相続財産を、弟は先取りしました。畑や土地、家畜などでしょうか。彼は、それらを全て金に換えて外国に旅立ち、そこで湯水のごとく散財したようです。

さて、弟が一文無しになった時、そこに酷い飢饉が起こりました。なんとかありついた豚を飼う仕事で、彼は飼料のいなご豆を食べようとしましたが、豚にも阻まれて空腹を満たすことはできなかったのです。

「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と』」(15:17-19)。

実家に大勢を雇えるほど財産があったならば、弟は多くの金を手にしたことになります。豪遊のおこぼれに与った者が居たに違いありませんが、飢饉の中では誰も彼を助けようとはしませんでした。

貧しく、助け手もなく、空腹を満たす手段もない。劣悪な労働の中で、彼は自ら関係を断った実家の事を思い出しました。もはや合わせる顔はない。しかし、死ぬほかない現状の中で、弟は父親に謝罪し、なんとか雇ってもらえないかとお願いすることにしました。

「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(15:20)。

豚の世話をしていた彼の身なりはボロボロで、出て行った頃の面影はなかったことでしょう。しかし、父親は遠くに居る息子を見つけて走り寄り、抱きしめたのです。親愛のしるしであるキスからも分かるように、彼が何も言う前から父親は息子を受け止めた、受け入れたということです。

「雇い人の一人としてもらえないか。」と願う2番目の息子の謝罪を聴いたものの、父親は雇い人に命じました。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」と(15:22)。それは、その家の正式な息子であることを表す服装でした。これに加え父親は子牛を屠り、祝宴を開いたのだというのです。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(24)という言葉から、父親の大きな喜びが伝わってまいります。

一方、仕事から帰ってきた兄は、祝宴が開かれている理由を雇い人から聞いて怒りました。「真面目に仕事を手伝ってきたが、これまでに父は、友人との食事に子山羊一匹も屠ってはくれなかった。にも関わらず、遊びほうけてきた弟を盛大に迎えている!」そのように、迎えに来た父親に怒るのです。

「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』」(15:22,23)。

たとえ話は、父親が怒る長男をなだめる言葉で結ばれています。

私たちは祈りを通して、如何に多くのことを神に願っているか。一方、365日を通して、神を忘れて生活している時間が如何に多いか。教会から足が遠のく、面倒だと思う、生活で手一杯となる、他のモノに熱中する。弟のように、神から離れる自分の姿に気づかされます。一方、礼拝に通いつつも、聖書の言葉とはかけ離れた生き方をする、聴いてもすぐに忘れてしまう、努力が報われないと苛立ってしまう。兄のような一面も私の内に在ることに気づかされます。だからこそ、息子たちに対する父親の姿から、神の私たちへの関わりを知らされ、励まされるのです。

自分の歩みを振り返る時、ここに居て良いのか、私には生きる価値があるのかと考えてことがあります。特に、光に照らされ濃い闇が強調されるように、聖書の語る生き方とはかけ離れていることに気づかされる時、より一層自分の愚かさに打ちひしがれます。

しかし、ボロボロになり、神の前に立つ資格がないのではと考えるこの身を直ちに見つけ、神は駆け寄ってくださる方なのです。「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」と喜ばれる。それほどまでに、私たちが神に望まれて生きていることを覚えたいのです。

元気や力に溢れる時、神の言葉なしでも生きることができます。そのように、神を近くに感じていない時にも、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と告げてくださる。つまり、必要とした時に呼び求め、その祈りを聴き、答えてくださる神は、神を必要としていない状態の私たちとも、常に一緒におられるのです。

身勝手に離れ去り、いつ帰ってくるのかも分からない。共に生きてきたものの、思いが全く伝わっていない。何度もつかず離れず繰り返す。しかし、キリストは十字架にかかることによって赦し、受け入れられたのです。

私たちはキリストによって、なおも神に望まれ、喜ばれている。私たちの居場所、帰る場所は、揺るぎない神のもとにあるのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

 
 
 

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