開け
- jelckokura
- Sep 16, 2018
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マルコによる福音書7章31-37節
7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、ユダヤ人にとっての外国である、ティルス(テュロス)地方に向かわれた主イエスと、そこに住むギリシア人の女性との対話について聴きました。彼女は娘の癒しを願いましたが、主イエスは次のように答えられたのです。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」(マルコ7:27)。
主イエスには果たさなければならない御業がありました。すべての人の罪と背きを赦すために背負われた、「十字架による死」。そして、死の先に用意された命があることを示すための「復活」です。
ユダヤ人たちが主イエスを拒否することで死と復活が果たされ、その後に、神の福音(良い知らせ)は、「ユダヤ人のみ」という枠を超え、全世界の人々へ告げられていくこととなるのです。つまり、「まだその時ではない」ため、「神が計画された順序に従わなくてはならない」と、主イエスがギリシア人女性の願いを断られたのだと受け取ることができます。
しかしそれでも、ギリシア人の女性は、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(7:28)と食い下がりました。そして、この諦めない願いのゆえに、彼女の娘は癒されることとなったのです。
主イエスは、神の計画の順序を変更してでも、名も記されていないギリシア人の女性の願いを聴き、彼女の娘を癒されました。それは、苦しさの只中に置かれる時、私たちの嘆きも、願いも、文句をも、主が全て聴き届けてくださるということでありましょう。繰り返し主に祈ると同時に、主の御業が果たされる時を安心して待つ者でありたいのです。
「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った」(7:31)。
本日の物語でも、外国人の住む地からガリラヤ湖畔へと主イエスが戻ってこられたことを知ると、これまでと同様に、人々は癒しの業を求めて主イエスのもとへ集いました。そこに耳が聞こえず、話せない人が、人々に連れられてやってきたと記されています。
神業と表現するほかない細かな構造と仕組みによって、私たちは音を聴いています。音の振動を鼓膜で受け止める外耳、鼓膜に繋がる骨の伝導によって音を増幅する中耳、増幅された音を蝸牛で電気信号に変え神経に伝える内耳。このどこか一部分でも伝達がうまくいかなければ、音を聴くことはできないのです。
生まれつき聴こえない方もいれば、何らかの原因によって突発的に、しかも一定の音だけが聴こえなくなる人もいます。また、年齢を重ねる中で、音を電気信号に変換するための蝸牛の毛が擦り減り、聴力が落ちる方もいます。音で情報を取り入れる世界に生きていた人が、突如聴こえなくなる場合、生活は非常に困難となるでしょう。
本日の物語では、周囲の人々が聴こえず話せない人の生活を心配したため、主イエスのもとに彼を連れてきたのでしょう。
「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」(7:33-35)。
主イエスの行動一つひとつに、どのような意味が込められているのかは分かりませんが、主イエスが触れ、「開け」と語られたことにより、彼は癒されることとなりました。癒されると同時に、はっきりと話せるようになったのは、彼がもともと聴こえ、話せたためでしょうか。
現在、蝸牛内の振動を電気信号に変換する毛を、再生する技術は既にありますが、毛を再生しても聴こえるようにならないのだそうです。聴力を失い、取り戻せる可能性も低い。喪失の痛みを背負いつつ、生活の困難と向き合っていかなければならない者に、主イエスは何と言われたか。触れ、「開け」と言われたのです。それは、馴染みのない環境に閉ざされた者を導き出す、回復の言葉でした。誰も語り得ない言葉によって、主は癒しを果たされたのです。
こうして、失われた音を取り戻された癒しの出来事は、主イエスが口止めされようとも、目撃者たちによって広く伝えられることとなったと、物語は結ばれています。
しかし一点、「聴こえない者が聴こえるようになる」ということについて注意しなければなりません。この物語は、「失ったモノを回復された」癒しの出来事として聴く必要があるように思うのです。
難聴や手話について学び始めてから、ろう文化について知る機会が増えました。日本でろう教育が始まった1880年以来、2000年代になるまで、ろう学校では「口話」を中心とした教育が行われてきたそうです。日本の社会は、多数の聴者を中心に形づくられています。そこで就職し、生活する時に困らないように、唇の形を読み取り、声を出す練習がろう学校で行われてきたのです。中には、手話を一切禁止し、厳しく指導されることもあったそうです。様々な活動を経て、2013年以降、手話が一つの言語だと認める条例が各県で制定され、広く知られるようになりました。
手話の語順は日本語とは違います。単語も一つひとつ覚える必要があります。英語等と同じように、手話は独立した言語であり、ここに、手話を中心とした一つの社会があるのです。
もし、聴こえない者の耳を開かれた物語を、「聴こえることが幸い、聴こえないことが不幸だ」と読むならば、手話を劣った言語として規制し、口話を強いた時代の社会と同じ価値観に立つことになります。
しかし、主イエスは、世の権力者と対峙することとなろうとも、大多数に抑圧される者と共に歩まれました。「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。」(詩40:4)と記されている通り、一人ひとりが本来あるべき場所で生きることができるように、十字架への道を進まれたのです。
だからこそ本日の物語は、深い喪失と困難の内に置かれる者を、主イエスが御言葉によって回復された出来事として受け取りたいのです。
私たちは何も持たない存在として生まれました。人生の旅路で、学びや体験、他者との出会いを通して、多くの物を手にしていきます。一方、齢を重ね、いずれ一つひとつを手放さなくてはなりません。中には、突如失われるモノもあります。
私たちは、得たモノを手放さなくてはならない歩みにおいて、大切なモノを失う痛みを新たに背負っていかなければならないのです。痛みの大きさは、他者には伝えることはできないものでしょう。
しかし、主だけが全てを知っておられるのです。十字架の死という苦しさの底に立たれた方だからこそ、私たちのいかなる痛みをも、共に担ってくださると信じます。生きている今、喪失によって欠けてしまった私たちの存在を回復してくださることを確信しつつ、歩んでいきたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン
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