ルカによる福音書18章1-8節
18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。 18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、重い皮膚病を患った者の住む村において、救いを求めた10人へと、主イエスが癒しの御業を現された出来事を聞きました。宗教上の理由で相容れなかったサマリアとガリラヤの狭間にある村に住まねばならないとは、重い皮膚病が原因で、自らの家や地域から追い出されたことを表しています。辛い闘病生活の中、周囲の人々から見放され、神の救いさえ語られることがない彼らの苦しさは計り知れません。
主イエスは、人が寄り付かない村へと足を運び、病気や宗教上の「けがれ」をうつさないように遠く離れて助けを求める10人を癒されました。この御業により、彼らは祭司に「あなたは清くなった」と宣言され、自らの日常に戻っていくことができたことでしょう。また、途中で癒されたことを体感して戻って来た1人のサマリア人に対しては、主イエスはさらに御言葉を語られたのです。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(ルカ17:19)と。
病気に対する知識のない時代には、それが罪の結果だとか、悪霊に取りつかれたからだとか、信心が足りないからだと語られることもあったでしょう。しかし、主イエスは1人のサマリア人の傷ついた心をも癒すかのように、病気だけではなく、彼の存在そのものを肯定して救いを宣言され、生活の場へと派遣されたのです。
主は、私たちの痛みや心からの願いを御存知の上で、願うごとに必要な物を、歩むべき道を私たちに与えられる方です。人生へと働きかけてくださる主によって、私たちの内に感謝が増し加えられ、主に信頼する心が起こされていきます。すなわち、私たちの信仰とは、確かに主が私たちと関わっておられることの証しなのです。本日も、主の御言葉へと聴いてまいります。
さて、先ほどお読みしました御言葉で、主イエスは「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」(ルカ18:1)、弟子たちへとたとえを話しておられます。すでに“祈っている人たち”へと語られたアドバイスと言えましょう。
たとえには、不正な裁判官と夫を亡くした一人の女性が登場致します。
主イエスの時代、父権制の中で女性は所有物や財産として数えられ、権利も与えられず、罪を問われる時には、都合よく意志をもつ一個人と認められていました。そのため、夫を亡くした場合、急に一家の中心に立たされ、職も見つけられないがために財産を食いつぶしていくほかない状況に置かれたようです。さらに、そのような生活苦の中で優しく近寄り、お金を搾取する者がいました。マタイ福音書には、次のようにあります。「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(23:17)と。宗教指導者たちは、生活に関するアドバイスをする役割を担っていたようですから、彼らを拠り所として騙されたならば、もはやどうすることもできません。
主イエスのたとえ話で登場するこの女性は、そのように生活を苦しめる存在から身を守ってもらうために裁判官へと訴えたのでしょう。彼女が頼らざるを得なかったのが、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」(ルカ18:2)でした。神さまと人とをないがしろにするということは、権力を用いて自らの正しさを押し通すということです。彼は、夫を亡くした女性の訴えに「しばらくの間は取り合おうとしなかった」(ルカ18:4)とあります。けれども、法の守護者であるこの裁判官に見捨てられてしまえば、後の生活の保障は有り得ませんから、しがみついてでも、彼女は訴え続けたのでしょう。
「しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない』」(ルカ18:4,5)。
裁判官が人の声に耳を傾けず、自己中心的に生きる者であろうとも、命がかかっているのですから、女性は決して諦めることなく、今後も訴え続けるに違いありません。また、もし裁判をせずに財産が尽きた場合、彼女がどこまででも追いかけてきて、全ての責任を問い続けることが分かったのでしょう。ついに、不正な裁判官は彼女の訴えを聴くことになったのです。
「それから、主は言われた。『この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる』」(ルカ18:6-8)。
裁判官の思いを変えさせたのは、夫を亡くした女性の人生をかけた必死の訴えでした。不正な裁判官の関心は、自らの権力と豊かさに注がれていましたから、日常から他者に目を注ぐような人物でなかったことは明らかです。しかし、彼女の諦めない姿勢が動きのない事態に流れを起こし、嫌々であろうとも裁判官を動かしたのです。
“自己中心的に生きる裁判官でさえ、絶え間なく願い続ける女性の言葉を聞き入れた。ましてや、人を生かし、生涯の歩みを全うした後も引き受ける覚悟を示してくださっている神が、私たちの祈りを聴き流されることはないのだ”と、主イエスは言われます。それゆえ、冒頭で語られた「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」との御言葉は、“神は、必ず祈りを聴かれるのだから心配することはない。安心して待ちなさい”という招きでありましょう。「祈り」とは、神と繋がれていることの証しです。信頼するからこそ祈った時点で既に安心が手渡され、希望を持ちつつ、待つことができるのだということを知らされるのです。
懸命に生きつつも、突如として生活に襲い来る苦難によって、為す術もないまま押し流されることがあります。祈る言葉が見つからず、祈る気力さえ湧き起らないこともあるでしょう。けれども、祈るために手を合わせることができずとも、言葉が見当たらずとも、私たちは信仰の友の祈りによって覚えられ続けていきます。また、声にならない叫びをも全てを知っておられる神は、私たち自身の生きる姿そのものを祈りとして受け取り、働きかけてくださるのです。
重要なことは、“私たちが祈り続ける者である”ということではありません。“私たち自身が、主に祈られる者であることを知る”ことこそ、信仰者としての立つべき場所でありましょう。
主と隣人によって祈られるばかりか、言葉を発せずとも私たちの存在そのものが祈りとして受け取られていく。私たちを引き受けると覚悟された神の御心に、圧倒されずにはいられません。これほどまでに徹底的に大切にしてくださる神が、今、私たちと共におられるのです。
私たちは、これからの歩みの中で祈り、後に、現された主の恵みを知らされることでしょう。主に祈り、聞き届けられたことを知り、後に感謝を祈る。この繰り返しの中で、私たちの内にある“神への信頼”が増し加えられていきます。大きな感謝をもって、新たに祈り、聴き届けられる時まで安心して待つことができるとは、いかに幸いなことでしょう。祈った時点で、先に待つ恵みを受け取る者とされていることを覚えつつ、隣人について、また、御心がこの世に現わされるように、祈り続ける者とされていきたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン