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捜し出す喜び


ルカによる福音書15章1-10節

◆「見失った羊」のたとえ 15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。 15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 ◆「無くした銀貨」のたとえ 15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、主イエスは弟子となる条件として、“大切な家族や友人、自分の命以上に神を愛するように”と命じられました。

人々は、期待と理想を膨らませて御後に従おうとしましたが、主イエスは御自身に与えられた十字架の死という使命を、お独りで担われる覚悟をされていました。それゆえ、“計画なしに未来を思い描くのではなく、今、すべての始まりであり、すべての与え主なる神に心を向ける。ここから新たな一歩を踏み出すように”と、主イエスは招かれるのです。

私たちの担うべきは復活の主の十字架であり、その荷は軽いと言われます。主イエスに人生の片棒を担いでいただいている私たちは、苦難の中に捨て置かれることはなく、その只中で主の恵みを受けるのです。神に生かされ、必要な糧を与えられている私たちは、主イエスと歩調を合わせ、神に向かって歩む者とされていきたいのです。

さて、本日与えられた御言葉は、話を聞こうとやってきた徴税人や罪人と共に食事をされる主イエスの様子を見て、ファリサイ派や律法学者が不平を言ったことから語り始められています。

当時の宗教指導者は、清い信仰生活を保つために、罪を犯す機会を避けるためにも極力他者と関わることがないように生活していました。旧約聖書によれば、罪人と関わることで、宗教的な意味での「けがれ」が移るのだと言われていたからです。そのように歪められた慣習の中で、聖書に記される「約束の救い主」と噂される人物が、罪人と食事をしているのです。それゆえ、人々へと清い生活の模範どころか、前代未聞の振る舞いをなさる主イエスへと、宗教指導者たちは不平を述べたのでしょう。

彼らの不平を聞き、主イエスは二つのたとえを話されました。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(ルカ15:4)。

一つ目は、99匹の羊を残し、1匹の羊を捜しに出た羊飼いのたとえです。羊は穴に落ちるほど近眼であり、荒れ野には強盗や獣などがいます。常識的に考えれば、迷い出た1匹を捜すことを諦め、他の99匹を危険な場所に放置することは避けることでしょう。

対象が羊だから、残る99匹が選ばれるのか。否、人間社会において人や物などが天秤にかけられる際にも、より価値のあるものが選ばれるのです。

親は、自らの子どもがほかの子よりも発育が良く、賢く成長することを望みます。学校の入試においては、何らかの才能がある者に推薦枠が用意されますし、有名な大学を出たり、優秀な人材は真っ先に就職先が決まります。年齢以上に若々しく見られることは嬉しいことですし、健康に長生きすることは誇らしいことです。優れたものへの憧れは、誰もが持っているものでしょう。このような優生思想のもとでは、価値の薄いと思われる1匹の羊は、悔しいけれど諦められることとなるのです。

けれども、たとえに登場する羊飼いは、99匹をその場に残し、迷い出た1匹の羊を捜しに出かけたのです。

「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」(ルカ15:5,6)。

羊飼いが失ったはずの1匹の羊を見つけた喜びは、彼だけにとどまるものではなく、友人や近所の人々まで分かち合われるほど大きなものとなったのだというのです。

なぜ、大きなリスクを背負ってまで、羊飼いは1匹の羊を捜そうとしたのか。次のたとえを通して、主イエスは人々に教えられます。

「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」(15:8,9)。

ギリシャのドラクメ銀貨は、ユダヤのデナリオンと等価ですから、現在の日本でいう一日の労働賃金と等しい額(日本円の1万円相当)です。10万円のうちの1万円を無くした場合、捜さない者は居ないでしょう。それは、1枚1枚に同じ価値があり、たった1枚でも無くしてしまえば、もう10万円ではなくなってしまうからです。価値に違いがなく、1枚が1枚が大切だからこそ、1枚の銀貨を無くした女性は念を入れて捜し、見つけ出した時には、近所の友人を集めて喜んだのだというのです。

二つのたとえを通して、人の世の価値観と神の御心との明らかな違いが示されます。社会の中で能力や財産によって“不要だ”と切り捨てられる者が居ようとも、神は誰一人漏れることなく大切で価値ある存在として見つめておられる。そして、主イエスは、この世において神の御心を実践されたのです。

たとえに登場する羊飼いの姿とは、まさにそのような主の御姿にほかなりません。彼は羊を1対99という数字では見ず、100匹という群れの1匹1匹を大切に思い、迷い出た1匹の大切な羊を捜しに出たのです。他の羊を見捨てたのか。そうではありません。すでに99匹の1匹1匹と羊飼いは信頼の内につながっていたのです。残された羊の中で、新たに迷い出る1匹が出たならば、羊飼いはその1匹を捜しに向かわれる方なのです。このことを理解していたからこそ、そして、残された羊の中に、かつて捜し出されたものがいたからこそ、彼らは羊飼いの帰りを待ち得たのではないでしょうか。それゆえ、置いていかれたことへの不満や悲しみを思うのではなく、自らをも見出してくれるであろう羊飼いと共に、彼らもまた、迷い出た1匹の羊を心配し、捜し出されたときには、再会を喜ぶものとなったのだと思うのです。

主イエスは私たちの羊飼いです。迷い出た者がいたならば、主はそのたった一人のために捜しに出かけられます。私たちが迷い出た1匹であったならば、迷い、不安に打ちひしがれる中から、主に捜し出されることほど大きな安心はありません。また、失われていた者が見つけ出されることで、「大きな喜びが天にある」(15:7)と語られています。その通り、捜しに出る主を見送る残された者の一人であるならば、主の帰りを待ち望み、ひとたび迷い出た者が捜し出された時には、主と共に喜ぶ者、さらには、天における喜びにも与る者とされるのです。

人の価値を定め、自らを過大評価して罪人を見下す宗教指導者たちに対して、主イエスは、このように神の御心を現されました。そして、人々から嫌われ、神の救いすらふさわしくないと排除されていた、たった一人の迷い出た者と共に食事を続けられるのです。「同じ釜の飯を食う」とは、御自身も罪人と同等に見られるということですが、最も身近な弟子たちでさえ批判しようとも、主イエスは罪人と呼ばれる者の人生の片棒をも担ぐ道を選ばれるのです。

神によって丹精を込めて形づくられ、命が吹き込まれた時から、人はすでに価値あるものであると宣言されています。この御心に立つならば、人の価値は天秤において比べることができないものであることを知らされます。それと同時に、私たち自身も、かけがえのない者として、神に大切にされ続けていることに、気づかされるのです。

歳を重ねるごとに、私たちは喪失を経験してまいります。それは、人や物に限らず、健康や働き、想い出や希望なども数えられます。いかに努力し、手を打とうとも、生きるということにおいて、それらの大切なものを失うことは避けられません。

しかし、主はその痛みや虚しさを抱える私たちを丸ごと、御自身へと取り戻されます。何ももたないこの身を受け入れ、限りある命の私たちには決して取り戻せないものを、限りない命である主は取り戻されます。

「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(15:10)。

主は、あなたの存在そのものを喜んでおられます。そして、御手から失われた人を求めておられます。絶望し、祈りも尽き、愛にくじけ、悔いる時、神は失われた人を見出される。そのように、人は神に見つめられ、知られ、見守られているのです。痛みや喪失感の中でも、主の徹底的な愛の前に、私たちは立たされています。主に見出された者、主と共に喜ぶ者として、与えられた日々を歩んでいきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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