ルカによる福音書12章49-53節
12:49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 12:50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 12:52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。 12:53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週の御言葉には、足の踏み場のないほど押し寄せる群衆の内、遺産相続をめぐって兄弟と争っている一人の男が、主イエスに問題を解決してくださるように願い出た出来事が記されていました。主イエスは、御自身が“裁判官や調停人のように日常生活のもめ事を解決するために遣わされたのではない”ということをハッキリと語られた後、人々に一つのたとえを話されました。
畑が豊作となった金持ちは、新たな倉を建てて財産と共に穀物を自分のために蓄え、これから先、何年も働かずに飲み食いできることを喜びました。しかし、神によって、一夜にして彼は自らの命を取り上げられることとなったのだという内容です。
財産や地位、能力や健康などを持つ自らを誇ろうとも、命がなければそれらは何のためになりましょう。それゆえ、自己中心的に豊かさを求めるのではなく、何よりも貴い命を与えられる神に心を向けるように、主イエスは呼びかけられるのです。
手の内のものを数えて一喜一憂する歩みでは、満たされないことへの不安からは決して逃れられないことでしょう。だからこそ、主イエスは新たな道を教えてくださるのです。それは、必要な糧を与えてくださる愛の神を信じる道。小さな自らの手の内を数えるのではなく、神の御手によって私たち自身が数えられており、これから神によって覚えられ続けていくことを知らされていく道です。神によって養われること以上に安心できることはありません。これから行く先も、また、振り返って見る軌跡にも、至るところに神の恵みが備えられていることを覚えつつ、主への信頼という安心の道を、私たちは歩んでいきたいのです。
さて、本日も、先週に引き続きルカ福音書の12章の御言葉を聞いてまいります。この章全体を通して、当時の常識を打ち崩し、神の御心を明確に語られる主イエスの姿が描き出されています。先ほどお読みしました御言葉でも、同様に緊張感に満ちた内容が語られているのです。
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」(12:49,50)。
主イエスが人々の前に姿を現されるより前に荒れ野で活動し、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた洗礼者ヨハネの言葉を思い起こします。
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(3:16,17)。
“預言者モーセの前に、燃える柴によって神が御自身を現される”など、火に関するエピソードが聖書には記されていますし、神殿では、いけにえを燃やすことで煙を立ち昇らせ、神への献げ物としました。また、聖霊降臨の出来事では、炎のような舌が弟子たち一人ひとりの上にとどまった(使2:3)とあります。このように、火は焼いたものを清め、聖霊と深く結びつくものと考えられていたことを知らされます。
ひとたび火がついたならば燃え広がり、すべてを焼き尽くしていく。そのように、“聖霊と火によって洗礼を授けられる主イエスが来られたならば、逃れられる者はなく、皆が清めの火で焼かれることになるのだ”と、洗礼者ヨハネは言い表しているのです。
これらの理由から、主イエスが言われた「火を投ずる」という御言葉の意味とは、「聖霊による清め」を指していることとして受け取ることができます。しかしながら、神の清めの火とは、御自身の苦難なくしては燃え立たないのだと、主イエスは言われます。「わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」との御言葉には、背負わなければならない重荷の耐え難さと、それほどの苦しさを引き受けてでも御業を現そうとされる主イエスの熱意が示されているのです。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる」(12:51-53)。
家族とは不思議なもので、良い思い出ばかりでなくとも、意見の食い違いが起ころうとも、最も近くに在り続けるものです。良好な関係が築けているならば、見返りを求めずに互いに大切にし合える安らぎの場となり、物理的な距離があろうとも強く結ばれ続けます。
しかし、そのように強固な絆で結ばれる家族の間でさえも、御自身が来られ、火を投ぜられることによって分裂が起こるのだと、主イエスは言われます。なぜならば、この世に来られた主イエスの使命が、人々の常識を肯定し、彼らの願望を果たすことではなく、それらを打ち崩し、神の御心を現すことにあったからです。
主イエスの時代、強力な軍隊をもっていたローマ帝国が、ユダヤ人の住む地方を監督していました。ユダヤ人の間でも、教育を受けて文字を読む力がある者は聖書を研究することができ、記される掟を守る努力をしていた者が尊敬を集めていました。また、レビ族の血筋にある者だけが祭司の職務を担うことができ、人々のために救いを神に執り成すこと、宗教的な「清い・けがれている」という宣言も彼らの役割とされていたのです。神より任命された代理人とされていたならば、地位も高かったことでしょう。このように、当時の社会では、何らかの力を持つ者が他者の上に立ち、支配する構図がありました。
その陰には、肩身の狭い思いをする人や掟を守れずに罪人と呼ばれる者、汚れた者というレッテルによって拒絶される人や追いやられて村と村の狭間で野宿する者、物乞いをしなければ生活できない人や搾取されて明日の食料すらもなくなってしまった者がいた。人の常識によって、神の救いの枠組みから跳ねだされ、助け手がないまま倒れる者もいたことでしょう。聖書に記される神の御心は忘れ去られ、人の努力や力の下に隠されていたのです。
しかし、主イエスは、そのような人々が築き上げたシステムを根底から打ち崩されました。人が手の内にあるものを比べ合い、何も持たぬ者が軽んじられる世界へと、神が等しく大切に思われるがゆえに一人ひとりが形づくられ、貴い命を吹き入れられたことを告げるために。そして、御自身の命をもって、再び自ら御心から離れた人々を神と結びつけるために、主イエスは耐え難い苦難を引き受ける覚悟をされた。常識やシステム、信じるものを踏みにじられたと考える人々と対立して殺されることになろうとも、分裂の先にある一致を見据え、主イエスは突き進まれたのです。
弟子たちは、主イエスに従う限り、共に分裂による迫害に耐えていかなければなりません。だからこそ、主イエスは従おうと集う人々へと、御自身の使命とそれによって起こることとなる分裂を語られたのです。
私たちの社会には、神の御心からかけ離れた常識があり、力を持つことの重要性が教えられています。最近では、他国に対抗し、日本の地位を世界に示そうとする動きが目立ってきました。しかし、社会の風潮に流されそうになる時、主イエスの語られた分裂の意味を知らされるのです。私たちは、神の御心に根差すように招かれており、主イエスの十字架と復活によって赦され、愛の神によって養われていく安心を知らされているのです。分裂が起ころうとも、迫害が待ち受けていようとも、先立って歩み出された主イエスという道が、私たちの前に続いています。語られた御言葉の重みを知らされた私たちは、今、神の御心と向き合いつつ、揺るぎない平和で満ちる神の国を祈り求める者でありたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン