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ヨハネによる福音書10章22-30節

10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。 10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。 10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。 10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。 10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 10:30 わたしと父とは一つである。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちは、これまでに主イエスが人々の罪を背負って苦しみを受けられた歩みを、そして、死の底から復活された出来事を、御言葉より聞いてまいりました。

今一度思い起こしますが、主イエスが十字架にかけられた後、弟子たちは同じように捕らえられることを恐れ、扉に鍵をかけて部屋に閉じこもっていました。それは、当時の宗教指導者たちから反対され、その結果、殺されることになろうとも、貧しい者や弱い立場に置かれていた人々に出会っていかれた主イエスとは、正反対の生き様です。主の十字架の御前から逃げ出すだけでなく、これまでに語られてきた御言葉さえも、身を守るために無視せざるを得ない自らの弱さを、彼らは噛み締めていたことでしょう。

しかし、先週の御言葉で語られた通り、主イエスは鍵をかけていたはずの部屋に突如として現れられ、弟子たちの真ん中に立って言われたのです。「あなたがたに平和があるように」(ルカ24:36)と。逃げ去った過去、それでもなお御言葉を守らない現在の姿を責めるのではなく、彼らの持つ痛みや恐れをすべて御存知の上で、主イエスは弟子たちの癒しと安らぎを願われました。死が越えられないものであるならば、許されることのなかった裏切りと、その負い目を、主イエスは復活された御自身の姿によって、拭い去れたのです。

主イエスによって、人をふさぎ込ませる死の力は打ち砕かれ、その先に在る「神と共に生きる永遠の命」が指し示されました。この出来事によって、御業に圧倒された弟子たちは、人に怯え、負い目に押しつぶされる日々から、主を証しするために扉を開け放ち、旅立つ者に変えられていったのです。主によって新たに生まれるとは、このことです。

今、私たちの「神は、生きて働かれる方である」と語られています。弟子たちと同様に、主は私たちをも御言葉によって支え、真に歩むべきたった一つの道を備えてくださっているのだというのです。毎週の主日礼拝のたびに、主への信頼が増し加えられていくことを望みつつ、御言葉を聴いてまいりましょう。

本日与えられた福音には、主イエスがユダヤ人と問答する姿が記されていました。

「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。『いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい』」(ヨハネ10:22-24)。

聖書には、4つの福音書が収められていますが、中でも、ヨハネ福音書は特別な位置づけにあります。マタイ福音書とルカ福音書は、最初に記されたマルコ福音書を土台として書かれたと言われており、内容や流れは似ています。それに対して、最も遅くに記されたヨハネ福音書は、抽象的で独特な書き方で主イエスの生涯を伝えています。このヨハネ福音書の一つの特徴としては、主イエスが3年に及ぶ宣教の旅の間に、幾度もエルサレムを訪れているということです。他の福音書では、主イエスがエルサレムに向かわれたのは、十字架の出来事の際のみです。

その通り、ヨハネ福音書の今回の御言葉で、冬にエルサレムで行われた神殿奉献記念祭へと、主イエスは参加しておられます。この祭りは、「光の祭り(ハヌカ)」と呼ばれます。紀元前167年に、ギリシャ人の支配からユダヤ人が独立を果たし、神殿から異教の祭壇を打ち砕いたことを記念し、お祝いする日です。

この祭りの際に、ユダヤ人たちが主イエスを取り囲み、“自分のことを「メシア(油注がれた王、救い主)」だとハッキリ言ったらどうだ”と詰め寄ったのです。彼らは、主イエスを訴えるために、“神を冒涜した”という明確な理由が欲しかったのでしょう。彼らの言葉を聴き、主イエスは答えられました。

「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである』

」(10:26-30)。

本日は22節から読みましたが、少し前の10章1節から、主イエスは「羊」をテーマとしたたとえ話をされました。御自身を「羊飼い」、御言葉に従う者を「自分の羊」と言われ、“わたしは自分の羊を命がけで大切にする。その他に、囲いの外にいる羊をも導く使命がある”と、主イエスは語っておられます。

羊たちはすごく近眼であると言われています。だからこそ、集団で身を寄せ合って身を守るほかありませんし、導く者の声に従わなければ食べ物を見つけ出すことはできません。食べ物を得ることができなければ、飢え死にしてしまいますから、羊たちは食べ物のもとへと導いてくれる羊飼いの声を決して間違えることなく、しっかりと聞き分けるのです。羊飼いもまた、自分の羊たちを体を張って野獣から守りますし、いつも新鮮な食べ物の場所を探し、羊たちを導きます。雇われただけの者には、決してできないことです。そこには、信頼や愛のような繋がりが見えます。

このことを踏まえて考えますと、より鮮明に主イエスの御言葉の意味を知ることができます。

主の羊は、良い羊飼いとして導かれる主イエスの御言葉をしっかりと聞き分けます。その一人ひとりのために、主イエスが命がけで永遠の命を与えられるために、主の羊は誰一人として滅びることがないのです。なぜならば、主イエスは父なる神と一つに結ばれており、父にはできないことが何もないからです。御言葉を聴き、御業を目撃してもなお無視する者は、御自身の羊ではないのだと厳しく言われます。

しかし、主は一度ならず、呼びかけ続けられる方であることを覚えたいのです。ユダヤ人たちが信じず無視しようが、彼らの前で主イエスは癒しの業を行い、御言葉を語り続けられました。繰り返し、父なる神の御心を現される姿が、聖書には記されています。そのように、まず主の方から歩み寄り、呼びかけられるのです。求められているものは、「主の声に従い、信じる」という応答だけです。必要なものは与えられてきましたし、これからも主によってもたらされる。ただそこに信頼するだけで、私たちは主に「わたしの羊」だと宣言されるのです。

これまでも、そしてこれからも「わたしの羊」という理由だけで、主は私たちを愛し、責任をもって豊かな恵みを注いでくださるというのです。ここに、人の理解を遥かに超え、大きな覚悟を持って私たちを引き受けてくださる主の愛が示されます。

主イエスは、「わたしの羊」と呼ぶ者に対して、永遠の命を与えると言われます。それは不老不死の命ではなく、神さまと共にある命。つまり、神さまが御自身の命を、私たちの分として与えてくださるということです。すべてを与え、育て、また引き取られる方と共にある命。それは、何者も奪うことはできないものです。主は、命をかけて私たちを御自身の羊とされた。この約束が、今、私たちへと語られています。永遠の命についても、死の後についても、私たちのうち誰一人として知っている者がいないのであるならば、すべてを御存知である方にこの身を委ねたい。私たちの導き出す答えを横に置き、主が私たちに呼びかける声に耳を傾けていきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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