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知っている


マルコによる福音書6章1-6a節

◆ナザレで受け入れられない 6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。 6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、会堂長ヤイロの死に瀕していた娘を癒すために向かわれる途中の主イエスの衣服に、後ろから触れて癒された一人の女性についての出来事から、主イエスの御言葉を聞きました。この女性は12年もの間、出血の止まらない病気に悩まされていました。また、聖書には“血は神さまのものであり、人は食べたり触れてはならない”との掟があるため、血が止まらないことで宗教的には罪人として扱われ、あらゆる権利がはく奪され、社会の外へと追いやられていたことでしょう。頼みの綱の医者にもひどく苦しめられ、最終的に全財産を失った彼女の前に、“彼は、聖書に書かれる約束の救い主ではないだろうか”と噂されていた主イエスが来られたのです。彼女は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」(マルコ5:28)と最後の望みをかけ、病気によって“他の人に触れてはならない”と言われていたにもかかわらず、群衆の中に紛れ込み、主イエスの後ろから、その衣服に触れたのです。そして、彼女は病気が癒されたことを体感するに至りました。

人々に気づかれぬうちに立ち去ろうとしたであろう彼女は、主イエスに呼びかけられ、震えつつも皆の前に歩み出て、これまでのいきさつをすべて告白することとなったのです。すると、主イエスは言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」(5:34)と。病気が癒されただけでなく、主イエスが皆のいる前で病気の癒しを宣言し、かつてのような社会生活に戻るよう送り出されました。このことは、病気の癒しに留まらず、罪の赦しをもたらすものでありました。再び、社会とつながれたのです。主イエスとつながることによって、彼女のすべてが回復されたのです。

私たちは、主イエスの姿から、小さくされて苦しむ者の声にならない叫びを聞かれ、願う以上に大きな恵みをお与えになる神さまの御心を知らされました。私たちの歩みに伴われる主に、すべてを委ねたいのです。

さて、ガリラヤ湖の荒波を静められ、弟子たちへと「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(4:40)と言われた出来事、そして、主イエスによって、12年間出血の止まらない女性が癒され、神さまとの関係を回復された出来事と続けて、御言葉より聞きました。2つに共通しているテーマは、「信じる」ということです。本日の御言葉も、同じテーマを扱っています。信じるとは、信仰とは一体何であるのかを、御言葉より聞いてまいります。

「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた」(6:1,2)。

衣服に触れて病気が癒された女性へと赦しを宣言し、会堂長ヤイロの娘を起こされた後、主イエスは弟子たちを連れて、御自身の故郷である「ナザレ」に帰られました。主イエスの十字架の出来事以前には、名も知られぬほどの小さな町でしたが、しっかりと神さまに祈るための会堂が建てられていたようです。一行は安息日になったため会堂へと向かい、そこで主イエスは他の場所でもそうであったように、人々に教え始められました。聖書には、主イエスの語られた御言葉について触れられておりません。ただ、「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(1:14,15)とありますように、故郷の人々にも“神の国の訪れ”を告げたことでしょう。

「多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた」(6:2,3)。

これまで、主イエスはガリラヤ地方やデカポリス地方に向かい、多くの御業を現され、神さまの御心を御言葉によって宣べ伝えられました。この噂は広められ、ナザレにも及んでいたに違いありません。実際に、会堂で聞いた主イエスの御言葉を、人々は何一つ否定していません。それどころか、主イエスの語られた“人の想像を超えた福音(良い知らせ)”と、その“御手の業”に驚かされたほどです。

しかし、彼らはそれを語り、行ったのが昔からよく知っているイエスであったことにつまずいたのです。会堂に居た人々は、主イエスが幼いころから同じ町で生活して来ました。彼らは、主イエスの育ての親であるヨセフとマリアを知っており、主イエスの兄弟や姉妹となる者たちとは日常の中で顔を合わせています。当時は、親の職業を子どもたちが継ぐことが一般的でしたから、父親のヨセフが大工をしているため、主イエスもまた大工として生活していると思っていたのでしょう。そのイエスが、多くの弟子を引き連れて会堂で教え、奇跡の御業を現しているのです。人々は、今まさに会堂で語られたであろう神さまを忘れ、主イエスを疑い怪しんだのです。

「イエスは、『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(6:4-6)。

マタイ福音書11章27節には、次のようにあります。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。

主イエスの歩まれた時代、古くから語り伝えられてきた神さまの御言葉は、すでに旧約聖書として書き記されており、指導者たちはそれを研究して人々に教えていました。指導者の内、ファリサイ派と呼ばれる人々は“神さまの持つ命の書に名を記され、永遠の命に与りたい”と願い、神さまの掟を熱心に守りましたし、会衆にも同様に正しく生き、神さまの目に適う歩みを心がけるように教えていました。“神さまを知り、正しく生きる。それが出来ない者には、神さまの救いは与えらない”というのが、彼らにとっての常識だったと思われます。人という社会が罪人や弱者を作り、自らの努力や知恵を誇る。もはや、主イエス以外に神さまの御心を知る者はないのです。

ナザレの人々が、“父なる神さまへの筋道”である主イエスを否定したとき、主イエスは神さまの御業を現すことができませんでした。主イエスの伝道を阻んだものは、知人たちの知識です。聖書に記される預言者もそうであったように、“かつてのイエスを知っている”という思いが、ナザレの人々を神さまと御子から遠ざけ、福音に聴かせず、求める心を失わせています。人々が神さまを求めないことにより、主イエスは御業を行うこともできず、「人々の不信仰に驚かれた」のです。

人は歩みの中で、体験や経験を積み、多くのことを学び、生きるすべを身につけます。「知る」ということは、暗闇でつける懐中電灯のように、私たちの視界を広げ、怖がらずに新たな場所へと進む道具となります。知識が多いほど行動できる範囲は広がっていくため、未知な領域は研究によって解き明かされ、後世に伝えられてきたのです。その蓄積の上を、私たちも社会から漏れずに歩んでいます。

信仰においても同様に、語り継がれてきた聖書の御言葉を聴き、神さまについて知らされることは、私たちの生きる糧になっています。ひとつ、またひとつと御言葉を知るたびに、私たちの安心は増し加えられていきます。

しかし、「信仰は知識ではない」と言われます。もし、「知っている」ということが生きる力になっているならば、それは幸いなことですが、生きる知恵が救いに繋がるわけではありません。では、私たちの知識が人を救うのではないならば、一体何が救いとなり、信仰の基となるのでしょうか。それは、“神さまに知られている”ということです。生まれる前から、あるいはこの世を去った後も、神さまに知られ、覚えられている。ここに人の知識を越えた救いがあり、ここから、私たちは歩み出したい。共におられる主の愛を全身で受け止めつつ、神に覚えられ、生かされている幸いに生きたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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