ことば(クリスマス記念礼拝)
- jelckokura
- Dec 21, 2014
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ヨハネによる福音書1章1-14節
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2 この言は、初めに神と共にあった。 1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
本日、私たちはクリスマスを記念する主日礼拝を迎えました。町には色とりどりの電飾が飾られ、クリスマスソングが流れています。御存知の通り、クリスマスは、イエス・キリストの誕生日、今から2000年ほど前の出来事に由来しています。
先ほどお読みしました聖書の御言葉で、ヨハネ福音書の著者は、主イエスのお生まれを次のように語っていました。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:1-5)。
この世界の始まりは、神さまの「光あれ」(創1:3)との御言葉であったと聖書は語っています。すべてのものが神さまの御言葉通りに形造られていった。そして、この御言葉こそが、主イエスであり、暗闇で輝く光だと言うのです。
クリスマスと言えば、一般的にきらびやかで温かい光景がイメージされますが、ヨハネ福音書では、“主イエスという光が来られるまでの世界は暗闇であった。そして、暗闇は光を理解しなかった”と語られているのです。
当時の人々の生活について少し考えてみます。ユダヤの地域は、ローマ帝国の属国として監督されながらも、王を立てての自治権は認められていました。ガリラヤ湖周辺地域では外国人や外国の文化が流れ込み、ユダヤ人は肩身の狭い思いで生活していました。幾重にも税金を取られ、貧しさの中で外国人の奴隷として働く人もいたようです。“聖書には救い主が来ると書かれているのに、なかなか来ない”。仲間が苦しむ姿を見ており、自らも貧しい生活をするユダヤ人は、“はやく救い主が来て、自分たちの国を取り戻してくれる”ことを期待してじっと耐えて来たのです。
彼らの悩みは、外国人たちとの接触だけではありませんでした。神さまとの関係です。ユダヤ人は、長い間神さまを信じ、祈りながら歩んできました。しかし、救い主の訪れに待ちくたびれ、神さまの約束を忘れて生活する人たちも多くいたのです。すると、律法学者や祭司から、“律法から離れているあなたは罪人だ”と言われてしまう。すると、ユダヤ社会から追い出されることとなるのです。仲間外れになり、町に居られなくなれば生きていくことはできません。ユダヤ人同士の間にも、このような関係の破れがありました。
また、伝染性の病気になった場合も大変です。人にうつることを防ぐために、町の外に追い出されてしまうのです。それぞれが生きることで精いっぱいな状況の中で、誰にも目を向けられず、一人で命を落とす人もいたことでしょう。人にも神さまにも見捨てられたとの思いが溢れる世界とは、ヨハネ福音書が語るように、まさに“暗闇”であったことを知らされます。
主イエスは、そのような暗闇の社会で、飼う者のない羊のように飢え、渇き、希望や喜びのない人々の真っただ中へとお生まれになったのです。
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1:9-14)。
この世界にお生まれになった主イエスは、後にユダヤの地域を旅されます。そして、まず、町の外に出され、誰にも話しかけられず、触れられることもない人々と出会い、その手を取っていかれます。そして、それらの人々へと神さまの御言葉を語られるのです。罪人と言われ、追い出された人々の間を、苦しむ人々のために、主イエスは歩まれます。絶望の中で立ち尽くすしかなった人々のもとへと、救い主の方から近づかれるのです。
“神さまは私を見捨てられたのだと思っていたけれど、そうではなかった。これほどまでに愛されていた”。優しさがあふれる主イエスの歩みに多くの人々が従っていきます。けれども、このことで、これまで権力を握っていた人々から憎まれ、結果的に十字架にかけられて処刑されることとなります。ヨハネ福音書が「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1:10,11)と語っている通りです。主イエスは全て御存知の上で、この世へと来られました。それは、道に倒れている一人をも救い、希望を与えるためであったことを覚えたいのです。
主イエスのお生まれであるクリスマスが、なぜ、お祝いされるのか。それは、暗闇の中を生きる弱く小さな一人のために、そして、私たち一人ひとりのために、その命をかけて主イエスの方から近づいて来てくださった記念の日だからです。私たちが、それほどまでに大きな愛を受ける存在として生かされていることを知らされる日だからです。
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:4,5)。
主イエスの御言葉は途絶えることなく語り継がれてきましたし、これからも語られ続けて行くことを信じます。希望の光は、これまでのように今後もなお、私たちにどれほど深い暗闇が押し寄せようとも消えることなく輝き続け、私たちを照らし導いてくれることを確信します。私たちは主イエスという光に照らされる者として、この世界を、私たち一人ひとりに与えられている命を生き抜いていきたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン
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