マタイによる福音書3章13-17節
3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、私たちは主イエスのお生まれに際して、①時の王ヘロデの脅威から逃れるため“エジプトに行くように”との御使いのお告げがヨセフの夢にあったこと、そして、②ヘロデや指導者たちが死ぬまでそこにとどまり、③“故郷に帰りなさい”というお告げが語られたことで再び歩み出した主の家族の姿を、福音書から聴きました。“神さまがいかなるときも共におられ、道を備えられる方であるならば、私たち自身もまた、その神さまの語りかけに耳を傾けながら、生かされていきたい”と思いを新たに致しました。
聖書は、この出来事のすぐ後に洗礼者ヨハネが現われ、人々のもとで福音を語り始めた時のことについて伝えています。そして、そこに主イエスも洗礼を受けに来られたというのです。降誕物語と続けて語られてはいますが、主イエスが御言葉を宣べ伝えるために歩み出したのは、ルカ福音書3章によれば30歳前後とされていますから、主がお生まれになってから約30年の時が経過しているのです。30年経過すると、時代は移り変わってまいります。近年、携帯電話やインターネット、医療技術の発達などを考えますと、その変化の大きさに驚かされます。
当時のユダヤはどのような状況であったかと言いますと、ローマ帝国の支配下にありました。侵略された国の人々は支配国に存在を認められていたとしても、対等に立つことは出来ません。大切な家族の命を奪われていたとしても、納税や労働の義務を課せられたならば果たさなくてはならないのです。反旗を翻せば、命はありません。
次第に、自分たちの町へと外国の人々が流れ込んで来て、これまでなかった文化が栄えてきます。端へ端へと次第に追いやられていき、肩身の狭い思いをしつつも、耐えていくしかなかったことでしょう。人々は聖書に記される救い主がやって来て、自分たちの国を取り戻してくれるだろうと半ば諦めつつも御言葉を信じて待ち続けていました。
そのような状況の中へ、洗礼者ヨハネがやってきたのです。風変わりな格好をし、これまで聞いたこともなかった「洗礼」を人々へと授け、悔い改めと希望とを語り始めたのです。耐えつつ生きていた多くの人々がヨハネのもとへとやってきました。中にはファリサイ派と呼ばれる聖書の専門家や、サドカイ派と呼ばれる神殿の祭司も加わっていました。人々に救いの道を説きつつも、彼らでさえ“赦される・救われる確信”が持てなかったのでしょう。多くの人々は何を目指し、どこに希望を持てばいいのか分からぬ状態、迷子となっていたのです。
「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」(マタイ3:13-15)。
洗礼者ヨハネのもとへと苦しさや辛い思いを抱えつつ集った人々と共に、主イエスも洗礼を受けに来られました。救い主としてこの世に来られた方が、悔い改めの洗礼を受けに来られたことは、どのような意味があるのでしょうか。聖書には説明がありませんが、主イエスが人々と共に苦しみを背負い、一人の人として歩み始めることのしるしとして受け取れます。ですから、主イエスの洗礼の出来事は、世界の痛みを見つめ、御言葉による癒しと救いをもたらすべく、人として歩み始められる神さまの出発点とされたのです。
教会では、洗礼を授けます。洗礼を受けた者は、①主と共に生きる者となり、②教会の一員として支え合い、御言葉を伝える器として歩んでまいります。洗礼を受けた者は、聖書からの御言葉と、聖餐において主の家族と共に主の食卓を囲み、パンとぶどうジュースを味わいます。主によって与えられるこれらの糧は、信仰者を力づける神さまからの大きな恵みです。
クリスチャンとなり、共同体の一員となるわけですから、出発点である洗礼を「受けるか・受けないか」という問いは、とても大きな決断を必要とさせるのかもしれません。
しかし、果たして洗礼は、人の決断によって授けられるものなのでしょうか。
「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(マタイ3:16,17)。
洗礼を受けられた時、天が開き、聖霊と御言葉とが主イエスに注がれたと、聖書は語ります。洗礼を受けられた主イエスへと、「天自らが開く」のです。天とは、神さま御自身を表わします。洗礼を受けたとき、神さま御自身が聖霊を注ぎ、「わたしの愛する子」と御言葉を授けられたのです。
洗礼の出来事は、当人にとっても、主の新しい家族を受け入れる教会にとっても大きな喜びです。しかし、それ以上に神さまが“洗礼を受け、主の御許へと帰って来たわが子を最も喜ばれておられる”ということを私たちは御言葉から覚えたいのです。
ルーテル教会では、生まれたばかりの子どもに洗礼を授けます。赤ちゃんに洗礼を受けるかどうかの意思を聴くことはできませんから、親によって連れられて授けられます。また、病床に伏し、意思表示をすることができなくなった方へと洗礼が授けられることがあります。ご家族の祈りと求めによってその機会がもたらされるのです。自分自身の意思を超えて、周りの方々の願いによって洗礼が授けられる。その出来事は、もはや“恵み”としか言いようのないものです。
洗礼は、時に当人の意志表示で、また、時に周囲の人々の祈りによって授けられます。そこに至る道は様々であっても、一つだけ変わらないことがあります。“神さまが洗礼を受けた者へと「わたしの愛する子」と語りかけ、大きな喜びをもって迎えてくださる”ということです。
マタイ福音書の最後には次のように書かれています。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:19,20)。
洗礼は“神さまに知られている者”であることの証しです。この世を生きるすべての人が、それを受けるにふさわしい人として、日々神さまに見つめられて歩んでいます。
主イエスの歩みを知る私たちは、洗礼を受けずにこの世を去る人を主に委ねることによって、天において赦され、その御手に抱きとめられることを信じています。洗礼は救いそのものではありませんが、主が“宣べ伝えよ”と命じられるならば、私たちは一人でも多くの人へと洗礼を授けていきたい。そして、主イエスと出発点を共にする者として、御言葉を地の果てまで伝えていきたいのです。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)。
主イエスの洗礼によって開かれた天は、閉じられたとは書かれていません。主イエスが来られてか私たちの生きる現在に至るまで、そしてこれから先も、主イエスに対して開かれた天が用意されています。そして、今も主の御声は響き続けるのです。その御声に耳を傾けつつ、備えられた道を主の御言葉に導かれてまいりましょう。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン