ルカによる福音書17章1-10節
17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。 17:2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。 17:3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。 17:4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」 17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 17:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。 17:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、私たちに与えられた御言葉は、一人の金持ちとラザロのたとえ話でした。家の門の前に貧しいラザロが横たわっていることを気にも留めず、他の人と同様に裕福な暮らしをした金持ち。二人が死を迎えた後、金持ちは炎の燃え盛る陰府に、ラザロは天の宴席でアブラハムの隣に上げられました。生前に送っていた生活の逆転が、死後に与えられたというのです。名前を知りながらも、ラザロにパン一つも与えることのなかった金持ちが、特に罪深いとも書かれてはいませんし、ラザロについても信仰深いとは記されてはいません。“主がすべてをご覧になり、二人にふさわしい道を与えられた”。主イエスは、無関心で生きる人々へと、知らぬふりや見て見ぬふりがもたらす結末を語られ、生きている間に必要な時に互いに助け合い、共に歩んで行くように言われたのです。
人をないがしろにし、自分の利益を追い求める指導者たちに語られた御言葉は、今の私たちに対しても重みをもって響きます。インターネットや携帯電話の普及によって、手軽に他者と連絡を取ることが出来るようになった半面、同じ場所に居るにも拘わらず、互いに携帯電話を触り、顔を伏せて座っている光景を街中で見るようになりました。事故や事件を目撃した時でさえ、助けに行くよりも先に、写真を撮ろうとする人が増えてきた印象を持ちます。隣近所の人と関わることも減り、干渉しないことが美徳とされる社会の中で、孤独死を迎える方々のニュースが多くなってきました。
そのような世界に在って、私たちは主イエスの御言葉から、関わること、支え合うことの大切さを今一度思い起こすようとの勧めを聴き取るのです。主がすべてを見ておられるならば、苦難にさいなまれつつも孤独に生きる人の姿を、もっとも悲しまれているのは主に他なりません。主の想いを私たちが知らされ、人と共に歩む者となるようにと主イエスは招いておられるのです。このことを踏まえつつ、御言葉に耳を傾けてまいります。
本日私たちに与えられた聖書の箇所には、主イエスが弟子たちへと語られた御言葉が記されています。
まず初めに、主イエスは故意に人をつまずかせ堕落に追いやらないように、特に小さくされている人々をつまずかせてはならない、と言われます。それは、「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がまし」(ルカ17:2)と言われるほど重い罪だというのです。ひき臼は、石をすり合わせて間に置いた穀物を粉状にするために用いるものです。主イエスの時代には、上に置く石を家畜に引かせていたようですから、非常に重いものであったことが想像できます。
主イエスは、人がつまずくことは避けられないと承知しつつ、「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(17:3,4)と弟子たちへと語られました。
7という数字は完全数と呼ばれます。つまり、厳密に7回という意味ではなく、「悔い改めます」という反省をもって謝る限り、赦し続けなさいと主イエスは語っておられるのです。①つまずかせないこと ②つまずいた人を赦すこと。それを弟子たちに行うようにと主イエスは言われました。
“仏の顔も三度まで”ということわざがありますが、私たちは「赦す」ということがどれほど困難なことかを知っています。幾度かは奥歯を噛みしめつつ赦すことが出来たとしても、7回以上も罪を重ねられた時、堪忍袋の緒が切れてしまいます。そして、相手の犯した罪が重いほど、赦すことは難しくなっていきます。ですから、弟子たちは、そのような状況となった時に、赦し続けることができるように「わたしどもの信仰を増してください」(17:5)と語った言葉は、よく分かります。“さらに自分の信仰を増し加えてもらえれば、私は人を赦し続けることが出来るはずだ”と。
しかし、信仰とは個々人の努力によって蓄えられていくものではないことを、主イエスはここで語られます。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(ルカ17:6)。
からし種は、コショウの粒のように2mm程度の大きさしかありません。桑の木に命令をしても言うことを聞かないことが弟子たちには分かりました。この御言葉を聴いている私たちにとっても、思いは同じです。現在の教会の中でも、信仰が自分の所有物のように語られることは少なくありません。私自身も、自分の弱さや醜さを前にした時に「もっと信仰深い人間になりたい」と望みます。信仰さえ深めることが出来れば、優しくて良い人間になれるような気がするからです。けれども、信仰は努力して鍛えられるものでもなく、むしろ人間の信仰はからし種一粒にも満たないものであると主によって教えられます。「信仰」とは、どのようなものなのか。人間には極め難く、計り知れぬ奥深さがあります。
主は、その疑問に答えるかのように言われます。
「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17:7-10)。
なぜ、僕は主人に従うのか。それは、主人のもとで働くことが務めだからです。主人が働く僕を労うことはあったとしても、立場が覆ることはありません。そこには、務めを果たすことが前提としてあります。
主は弟子たちに多くの御言葉を語られましたが、それらは神さまの御心として伝えてくださったものです。そして、主御自身もその御言葉に従って歩まれました。主に招かれ、全てを捨てて従って弟子となるならば、主御自身に倣い、連なる道を歩むようにと求めておられるのです。
人の社会は、上下関係と切り離せません。努力を積み重ね、地位や名誉を手にしていく。そこに喜びを感じる人も少なくないでしょう。多くの場合には、能力のある者、人とうまく関係の築ける人がそれらを手に入れていきます。生涯を通して、人の下で働きつつ生きる人もいます。このような上下関係は、これまでいつの時代もなくなることはありませんでした。
しかし、神の御前において、人は公平であるべき存在なのです。それこそ、主イエスが語り続けられた神さまの御心に他なりません。今この世にあって、“主の御前で互いに貴び合う”ことを、大切にすべき最優先課題として心掛けたいのです。
弟子たちは、奇跡や聞いたことのないほど恵み深い御言葉を語る主イエスと共に歩む自分自身に誇りを持っていたことでしょう。主イエスと共に歩んでいたにも拘わらず、彼らは弟子の中で誰が一番偉いのかということを話していました。しかし、主に従う者の上下関係は、社会の常識とは正反対なのです。誰よりも低い者として御自身の命をも差し出された主をはじめとして、主に従う者は人よりも低い者として歩むのだ、と語られていることを覚えたいのです。
では、私たちは何故、人のために祈り、御言葉を伝えようとするのでしょうか。出会った人と助け合ったり、支え合ったり、共に歩んで行こうとするのでしょうか。
すべては、主の御心を知らされたからです。主イエスは、小さくされている人の手を取り、立ち上がる力と勇気とを与えられました。社会の常識を打ち崩してまで、人が自らの人生を喜び、歩み出せるようにと御言葉を語られました。命懸けで神さまと私たちとの関係を再び繋いでくださいました。その主が、私たち一人ひとりと出会ってくださり、生きる力を与えてくださっているのです。
私たち自身が主と出会い、御言葉に力づけられ、生かされているからこそ、主の御言葉を自信をもって伝えます。また、深い信頼をもって人のことを思って執り成しの祈りを捧げるのです。私たちの出発点は、御言葉との出会い、すなわち主との出会いにあります。だからこそ、私たちの行いに感謝する人がいるならば、その感謝を主へとお返ししたいのです。
「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(ルカ17:10)。
主が歩まれたのは、弱さの中にある人々を慈しみ道であり、同時に苦難の道でもありました。それゆえ、主に従う私たちの道も困難に思えることがあります。人を注意することも、赦し続けることも、本当に難しいことです。つい、忍耐の末にゆるしへと達成したときには自分を誇りたくなることがあるかもしれません。けれども、主イエスは御自身を誇ることなく、最期まで神さまを信頼し、感謝をもって生き抜かれました。私たちが最も低い者として歩むとき、その主が共におられます。主と共なる道が備えられるように心より願います。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン