ルカによる福音書15章1-10節 15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。 15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
小倉教会には芸術家がおられます。以前は、絵画やモザイクアートをしておられたそうですが、現在では機織り機で裂()布()を織り込んだ作品をつくっておられます。先日も個展を開かれましたが、そこで見た一つひとつの作品が、見に行った私たちを惹きつけました。そこには、裂布と共に、情熱を注いだ時間も織り込まれていたのです。展示されているもの以外の作品も見せていただこうと思いましたら、「全部あげてしまって手元には残っていない」とおっしゃっていました。丹精を込めて織られた多くの作品は人に手渡され、そこにある限り時代を跨いで人に感動を与えていくのです。主が一人ひとりを形造られる時の熱意と注がれた愛を思い起こしました。また、主によって造り上げられた私たちの本来あるべき輝きについても教えられたように思います。
さて、本日与えられた御言葉では、主イエスは二つのたとえを話しておられます。一つ目は、99匹の羊を残してでも失われた1匹の羊を探しに出た羊飼いの物語です。一般常識として考えれば、たった1匹を探すために、他の99匹を危険にさらすことなど致しません。荒れ野には強盗や獣などの羊を脅かす存在があり、決して安全とは言えないからです。
人の社会の常識ではどうでしょうか。“被害が最小限になるように”と、そのたった一つの存在から目を背けるときがあります。人や物など多くのものを天秤にかけつつ、私たちの社会は表面的には平均が保たれているのです。その中にあっては、今後のリスクを考えれば、悔しいけれど1匹の羊は諦めるほかないのです。けれども、この羊飼いは当然と言わんばかりに迷い出た1匹の羊を探しに出たというのです。
「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」(ルカ15:5,6)。
失ったはずの1匹の羊を見つけた喜びは、羊飼い一人にとどまるものではなく、友人や近所の人々まで分かち合われるほど大きなものとなりました。
主イエスのまなざしは一人ひとりに注がれており、“たとえたった一人であったとしても小さくされ、社会の端に押しのけられることを良しとされない”という御心を、ここで知らされます。たとえに出てくる羊飼いは、羊を1対99という数では見てはいません。むしろ、100匹という群れの1匹1匹を大切に思い、迷い出た1匹の羊をかけがえのない存在として探しに向かっています。「他の羊は見捨てるのか」と思われる方もおられるかもしれません。しかし、残された羊も羊飼いの行動を理解していたと思うのです。彼らの1匹1匹もまた、かつて探してもらったたった1匹の羊に違いないからです。ですから、置いていかれたことへの悲しみではなく、主人と同じように迷い出た羊を心配する気持ちと、見出されたときには共に喜ぶ思いとを持っていたのではないでしょうか。
主イエスは私たちの羊飼いです。そして、私たちは迷い出た1匹の羊であり、99匹の残された羊でもあります。主はたった一人の人でも迷い出た時には、不安に心を揺らがせつつ、探して下さいます。そして、見出された時には「大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)と言われるのです。見つけ出された者以上に、天が喜びに包まれることを覚えたいのです。
また、ひとたび見出された者は、迷い出る人を主と共に心から心配し、見つけられたときには天における喜びの大喝采に加えられるのです。
「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)。
失われていた人が見出される度、私たちの喜びが加えられることで天における喜びはさらに大きなものとされてきます。すべては主のお働きですが、その出来事と出会えることは、真の恵みです。
二つ目のたとえ話もまた、私たちに主の想いを伝えるものです。
一人の女性が十枚のドラクメ銀貨を持っていましたが、そのうちの一枚を無くしてしまいました。ギリシャのドラクメ銀貨は、ユダヤのデナリオンと等価ですから、現在の日本でいう一日の労働賃金と等しい額(だいたい1万円相当)です。ここに男性は登場しませんから、いわゆるヘソクリというものでしょうか。彼女は無くした一枚の銀貨を念入りに探したことでしょう。
「そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」(ルカ15:9)。
その一枚は、彼女にとって無くなってしまえば大きな損失となりますから、一生懸命探し、見つけ出した時には大きな喜びとなるのです。その一枚があるからこそ、十枚となります。失われてしまった大切なものを再び見出す喜びを、このたとえ話を通して、主は伝えられるのです。
これらのたとえ話は、罪人や徴税人が主イエスのもとへと集まり、食事の席を囲んでいることを非難した聖書の学者たちへと語られました。学者たちは、“聖書の御言葉をしっかりと守る自分自身こそ正しい”と自負していました。そして、生きるためであっても聖書の掟を守れない人を罪人と宣言し、社会の端へと追いやっていたのです。だからこそ、そのような人々と一緒に食事の席を囲む主イエスもまた、彼らにとって許しがたい人物であったことが分かります。けれども、主イエスは御自身の想いを二つのたとえ話を通して人々に示されました。
主の御前では、すべての人が価値ある存在として眼差しが向けられているということ。
失われた者が再び主によって見出されることが天と天にいる天使たちの喜びとなるということ。
見出された一人ひとりは、今度は主と共に悲しみ、喜ぶ者とされるということ。
罪人を軽んじ、押しのけていた聖書の学者たちに、この主の御言葉はどのように響いたのでしょうか。誰でも、努力は報われてほしいと願います。どこかで「よく頑張った」と労ってほしい。頑張ることで自分の存在を確認したいのです。しかし、聖書の学者たちの求めるものは、すでに形造られたときから与えられていました。主によって丹精を込めて命が吹き込まれたことこそが、人が価値ある者とされていることの真実に他ならないのです。
それほどの想いをもって一人ひとりを形造られた主は、私たちの人生の中で起こる苦難を他人事とはなさいません。むしろ、私たちを見てはらわたが痛むほど悲しまれ、痛みを感じて下さるのです。主が共に痛みを負って下さるということは、すでに主に見出されているということでもあります。主は必ずその苦難を乗り越える力を与え、道を示してくださいます。悲しみの底にあって、すでに見出して下さった方に背負われ、喜びに至る道が備えられていることを覚えたいのです。
歳を重ねるごとに、私たちは喪失を経験してまいります。それは、人や物に限らず、健康や働き、想い出や希望なども数えられます。そのかけがえのない一つを失うことで深い喪失感に陥りますが、大切なものを失うことは避けられません。しかし、主はその痛みや虚しさを抱える私たちを丸ごと、御自身へと取り戻されます。限りある命の私たちには決して取り戻せないものを、限りない命である主は取り戻されます。
「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(15:10)。
私たちの主は、人の存在を喜ばれる方です。そして、御手から失われた人を求められます。人が絶望し、祈りも尽き、愛にくじけ、悔いるときに、神さまは失われた人を見出されます。人は神さまに見られ、知られ、見守られているのです。痛みや喪失感の中でも、その主の働きを信じていきたいのです。主に見出された者として、主と共に喜ぶ者として、これからの日々も歩んでいきたいと願います。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン